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一心専念 [『教行信証』「信巻」を読む(その65)]

(3)一心専念


 親鸞はこの「一心に弥陀の名号を専念して(一心専念弥陀名号)」について『一念多念文意』のなかでこう述べています、「〈一心専念〉といふは、〈一心〉は金剛の信心なり。〈専念〉は一向専修なり」と。普通は「一心専念」と言われますと、脇目もふらずに念仏するというように理解するものです。『小経』には「名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、…もしは七日、一心にして乱れざれば云々」とありますが、この「一心」はその意味で、副詞としての役割を果たしています。しかし親鸞は「一心専念」の「一心」は「信の一念」であり「専念」は「行の一念」であると受けとるのです。このように「一心専念」のなかに「信の一念」を読み込むことで、名号はわれらの行ではなく本願の行であることが明らかになります。


ここであらためて行と信の関係について確認しておきましょう。


われらは「行と信」と言いますと、それはもちろん「われらの行」であり、「われらの信」のことであると思います。しかし、行も信もわれら「に」おこるのは間違いないとしても、それをわれら「が」おこすことはできないということ、ここに親鸞が『教行信証』で説こうとしたもっとも大切なポイントがあります。行も信も如来から回向されるのであり、そしてその意味で行と信はひとつです。そのように行と信は別々にあるわけではありませんが、ただそれぞれに特質があり、だからこそ行と言われ信と言われるわけです。ではその特質とは何かといいますと、行はあくまで「如来の領分」にあるのに対して、信はあくまで「われらの領分」にあるということです。


行が「如来の領分」にあるとはどういうことかといいますと、まず「いのち、みな生きらるべし」という本願(ねがい)があり、それが名号(こえ)として一切衆生に届けられるということ、このすべては如来の領分に属するということです。親鸞が「自然法爾」というのはこのことで、ここにはわれらのはからいは微塵もなく、もうおのずからそのようになっているということです。



タグ:親鸞を読む
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