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過去も未来も現在のなか [「親鸞とともに」その119]

(3)過去も未来も現在のなか

「過去」とは、これまで経験してきたことと言えるでしょうから、そこには個人的な経験もあれば、みんなに共通する経験もあります。そこで多くの人に共通の経験と思われるものを拾い出して時間軸上に並べ、さらにはその間につながりをつけていく作業が歴史と呼ばれます。こうして人それぞれの主観的な「過去」とは別に、客観的な「過去」が見いだされてくると言えますが、それもしかしあくまで相対的にそうだとしか言えません。何年に何が起こったという事実は客観的でも、それがどのような意味をもつかは人それぞれだからです。それぞれの人の「いま」にとって、その出来事が大事な意味があるか、それともただのエピソードにすぎないかは千差万別です。

このように見てきますと、時間軸上に「過去」として配置されることから、何か「過去」そのものがどこかに存在しているかのように思ってしまいますが、それは実はそれぞれの人の「いま」にとっての「過去」であり、あくまでも主観的な存在でしかないということになります。そして主観的な存在であるとは、それぞれの人の「いま」のなかにしかその居場所がないということに他なりません。「過去」という時間がどこかにあるのではなく、それぞれの人が「いま」これまでの経験を思い出すなかに「過去」があり、それ以外のどこにもありません。「過去」は「現在」のなかにあるのです。

先に未来(明日)は現在(今日)のなかにあると言いました。そして今度は過去も現在のなかにあることを見てきました。昨日そのものがどこかにあるのではなく、それは今日のなかにあるということです。今日において昨日のことを思い出すところに昨日はあるのです。かくして過去も未来も現在のなかにあるという結論になります。過去や未来がないというのではありません、過去は記憶として、未来は想像として、現在のなかにあるのです。このように過去も未来も現在のなかにあるとしますと、時間の流れというものがなくなり、あらゆることがみな同時ということになりますが、さてしかし「時は流れる」ということは否定しようもない事実ではないでしょうか。


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