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「『証巻』を読む」その9 ブログトップ

 [「『証巻』を読む」その9]

(9)鏡

正定聚としての生についてあらためて考えておきましょう。正定聚は「わたしのいのち」を生きながら、同時に「ほとけのいのち」に気づいています。

突然ですが、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係は、ルソーの「社会状態」と「自然状態」の関係に当たると考えることはできないでしょうか。これは国分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』から示唆を受けたことですが、ルソーにとって「自然状態」は人間の理想としてそこを目指すところではありません。「自然状態」から離脱して「社会状態」に移行したのが人間ですから、人間が人間である限り、再び「自然状態」に戻ることはできません。しばしば「自然に帰れ」はルソーのことばとされますが、ルソーは一度もそんなことを言っていないそうです。「自然状態」は人間にとっての原風景であり、それは現実の「社会状態」のみじめさを映し出す鏡としての役割をはたしています。

これを「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」に当てはめますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」である限り、どうもがいても「ほとけのいのち」になることはありません。ですから「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」が目指すべき理想郷ではありません。そうではなく「わたしのいのち」のほんとうの姿を映し出す鏡です。われらは自分で「わたしのいのち」の嘘偽りのない姿を直接見ることはできず、それは「ほとけのいのち」という鏡に映してはじめて知ることができます。「わたしのいのち」のほんとうの姿とは「わたしのいのち」に囚われて生きているということ、すなわち我執です。それは「わたしのいのち」を何の根拠もなく他のいのちの上におくことですから、そこから必然的に起こるは自他の相剋です。われらは我執と自他相剋に生きていることに気づかされるのです。

このようにして、われらは「わたしのいのち」の嘘偽りのない姿に気づかされますが、それは同時にそのことを気づかせてくれた「ほとけのいのち」に遇うことでもあります。ルソーにとって万人が自由で平等に生きる「自然状態」は人間の原風景であるように、万物一如の「ほとけのいのち」はわれらの原風景であることに気づくのです。かくしてわれらは「わたしのいのち」を生きながら、「ほとけのいのち」という原風景を生きていることに気づくのです。


タグ:親鸞を読む
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