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聖者(しょうじゃ)と凡夫 [正信偈と現代(その158)]

(3)聖者(しょうじゃ)と凡夫

 「定散と逆悪とを矜哀して」という第2句は、定善をよくなし得る人も、また定善はなしえないが散善ならできる人も、はたまたそのいずれもできず五逆・十悪をなすしかない人もみなひとしく救われるということです。定善・散善の善人が救われるだけでなく、五逆・十悪の悪人も何の隔てもなく往生できる。「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり」と説く道綽の教えを受け継いだ善導であってこそ、このような『観経』の見方を打ち出し得たと言えるでしょう。
 ことは聖者と凡夫ということに関わります。
 善導より前に『観経』を注釈した浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん、廬山の慧遠とは別人)や天台大士智顗(ちぎ、天台宗の大成者)たちにとって、厳しい戒律を守って仏道修行にはげむ聖者と日々の生活の垢にまみれて生きる凡夫の区別があるということはもう当たり前の前提でした。その前提からしますと、日ごろ仏道とは無縁に生きてきて、一生のあいだ悪をなしてきたものが、いのち終わるに臨んで10回南無阿弥陀仏を称えるだけで往生できるなどと言うのは到底そのまま受け取ることのできないことです。それでは聖者は一体何なのかということになります。そこで凡夫が十念で往生できるなどというのは方便の教えにすぎないと解釈されるのです。
 しかし道綽や善導にとって末法の五濁悪世に生きるものに聖者も凡夫もありません。もちろん厳しい仏道修行をしている人もいれば、生活の垢にまみれている人もいるでしょう。人のために苦を厭わない善人もいれば、人を蹴落として何とも思わない悪人もいるでしょう。しかしそれもこれもそれぞれの人のおかれた状況によるものです。「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のもよほすゆへ」(『歎異抄』第13章)です。宿業というのは、その人がたまたまおかれている状況ということで、その状況によって何をなすか分かったものではないということです。
 「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり」とはそのような宿業の自覚に他なりません。そして宿業の自覚においてもはや聖人も凡夫もありません。

タグ:親鸞を読む
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