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光と闇 [『教行信証』「信巻」を読む(その54)]

(3)光と闇


今度は逆に、機の深信はあるが法の深信はないという事態はどうでしょう。これは実際にはありそうにないことですが、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」とは信じているものの、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」とは信じていないということです。この場合も「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は別々にあり、「わたしのいのち」のありようをみつめているかもしれませんが、「ほとけのいのち」はどこかにあるものとして、しかもその存在を疑っています。「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」のなかにやってきてはたらきかけていないということ、つまり真実の信心がないということです。


自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と信じること(機の深信)は、己の中の闇に気づいていることであり、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じること(法の深信)は、光がわが身にやってきていることに気づいているということです。ところで闇の気づきと光の気づきはひとつです。闇を闇と気づくとき、かならずその裏側で光に気づいていますし、光を光と気づくとき、かならずその裏側で闇に気づいています。光を知らない人は、闇を闇と気づくことはありませんし、闇を知らない人は、光を光と気づくことはありません。その意味で光と闇はひとつです。そのように法の深信と機の深信はひとつであり、一方があれば、かならず他方を伴っています。


さてここから大事なことが出てきます。かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という信があり、それが正真正銘のものであるとすれば、かならずその裏に自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という信があるとしますと、信心の人はみな例外なく「罪悪生死の凡夫」であるということです。すなわち凡夫と聖者の隔てはなくなります。すでにこのことは話題にしましたが(第5回、3)、龍樹や天親は菩薩とされ凡夫と区別されますし、さらに言えば、釈迦は如来とされ衆生から区別されますが、それらの区別はかの願力に乗じて、さだめて往生を得」という信においては意味を失い、みな例外なく「罪悪生死の凡夫」であると言わなければなりません。


釈迦を凡夫などと言えば、何という罰当たりなという非難が飛んでくるでしょうが、釈迦は釈迦にとっては間違いなく凡夫であり、しかしながらわれらにとっては紛れもなく仏であるということです。



タグ:親鸞を読む
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