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宇宙から密かな信号が [『ふりむけば他力』(その117)]

(13)宇宙から密かな信号が

 その大事なメッセージを考えるために、もう一度「わがもの」の物語に戻ります。われらは誰もみな「これは〈わがもの〉である」という物語のなかに生きていて、そのことに何の疑いも持っていません。つまりこれはわれらの通常の意識においては、世の中のすべてがその上に成り立っている現実そのものであり、物語などとはとんでもないことです。ところがあるとき不思議な気づきがやってくるのです、われらはみな「これは〈わがもの〉である」にもとづいて生きることに何の疑問も懐かず、それを当然至極と思っているが、実は、ただそうするよう条件反射が形成されているだけではないのか、と。いま条件反射という言い回しをしましたが、これが意識することなく物語のなかに生きていることを指しているのは言うまでもありません。
 さて、これは物語ではないかという気づきはその物語のなかに生きている人からは絶対起こりません。何度も言いますように、夢を見ている人が、これが夢であると気づくことが絶対ないのと同じことです。この気づきは自分の外からやってくるのです。この気づきが起こるのは自分においてであることは間違いありませんが、自分がそれを起こすことは金輪際できません、自分以外のどこかからやってくるのです。自分の力ではない、何か不思議な力がはたらいて、この気づきがもたらされたと感じる。ぼくはそれを宇宙から密かな信号がやってきて、それをわれらが傍受するという言い方をするのですが、それが比喩的なものであるのは言うまでもありません。その信号とはいったい何でしょう、どこからやってくるのでしょう、と問われたら、万事休すです。
 でも、この気づきがどこかからやってきたことは天地がひっくり返っても確かなことです。ただそれをうまく説明できない。そこで「他力の物語」の出番がきます。その気づきは阿弥陀仏の本願によってもたらされるという物語です。阿弥陀仏は一切衆生をわが浄土へ往生させたいと願い、その願い(本願)を「無量のひかり」(光明)と「南無阿弥陀仏のこえ」(名号)というかたちとして十方世界に隈なく届けてくださった。その「ひかり」に照らされ、その「こえ」を聞くことにより、われらは「わがもの」の物語に囚われて生きていることに気づくのだ、と物語るのです。

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