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学問と宗教 [『末燈鈔』を読む(その70)]

(7)学問と宗教

 学問とは「知る」営みであり、宗教は「信じる」領域と言えるでしょう。いや仏教は「信じる」より「悟る」のが原則だから、むしろ「知る」に近いのではないかと言われるかもしれません。しかしたとえば禅の悟りがその典型ですが、「悟る」は「知る」よりも「気づく」に等しいといえます。
 悟ろうとして悟れるものではなく、あるときふと悟るものです。ある禅僧が箒で庭を掃いていたとき、はずみで飛んだ小石が竹に当たって澄んだ音をたて、それで悟りがひらけたという有名な話がありますが、これなどをみますと「悟る」とは「気づく」ことであるのがよく分かります。
 「気づく」の特徴は、気づこうとして気づけるものではなく、あるとき思いがけず気づくということで、前にも述べましたように(1章-6)、気づきは事後的です。あることに気づいてはじめて気づいたことになるのです。それに対して「知る」は、まず知ろうとしなければ知ることはできません。
 こう言ってもいい。「知る」ときは、まず「わたし」がいて、しかる後に何かを知ることができるのですが、「気づく」ときは、まず気づきがあり、しかる後に「わたし」がのこのこ顔を出します。「わたし」は気づきに遅れをとるのです。「わたし」にとって気づきは「後の祭り」です。
 「信じる」は「気づく」に他なりません。これはもう何度も述べてきましたのでいいでしょう。このように学問は「知る」で、宗教は「気づく」だとしますと、宗教の領域に学問の入る余地はないように思えます。これはしかし容易ならざる事態と言わなければなりません。そもそもぼくがいましていることは何なのか。


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