SSブログ
「信巻を読む(2)」その5 ブログトップ

願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり [「信巻を読む(2)」その5]

(5)願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり

横超の菩提心を明らかにするために『論註』から引かれます。

『論の註』にいはく、「王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生(往生を願う行者を上輩・中輩・下輩の三種に分ける)のなかに行に優劣(うれつ)ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心(仏になりたいと願う心)なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心(衆生利他の心)なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ぜんまたまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑにいふこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんとふがゆゑにと。住持楽とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽なきなり。おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与(せよ)したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と。抄出

この文は『論註』下巻の「善巧摂化(菩薩が巧みに衆生を済度するという意)章」に出るもので、『浄土論』の「菩薩の巧方便回向とは、いはく、説ける礼拝等の五種の修行をもつて集むるところの一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに、一切衆生を摂取してともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願するなり」という文を注釈しています。曇鸞はこの菩薩の回向発願心を無上菩提心として、それは願作仏心すなわちみずから仏になろうとする心でありながら、同時に度衆生心すなわち一切衆生を済度しようとする心であると述べます。願作仏心でありながら、それがそのまま度衆生心であるところに無上菩提心の本質があるということです。

その話に入る前にこのなかの最後の一文について一言。これは菩薩すなわち仏道修行者の回向発願心について述べられているのですから、普通に読みますと「おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり」となりますが、親鸞は例によってこれを「おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と如来を主語として読んでいます。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その5 ブログトップ