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われ一心に [はじめての『尊号真像銘文』(その55)]

(2)われ一心に

 龍樹につづいて天親で、『浄土論』から二つの文を取り上げ、詳しく解説してくれます。まず婆藪般豆(ばそばんず)という名前と、『浄土論』という書物の名前について一通り説明した後、一つ目の文に入りますが、この文は『浄土論』の冒頭にあります。親鸞はとりわけ最初の一文「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」に重きを置きます。あの唯識の大哲学者・天親が『浄土論』の冒頭で、釈迦に向かって「こころから尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に往生したいと思います」と呼びかけているのがよほど印象的であったと思われます。
 「世尊、われ一心に」の「一心」を「すなわちこれまことの信心也」と解説しているのが目を引きます。
 思い出されるのが「信巻」で展開される、いわゆる「三心一心問答」です。親鸞は信心についてさまざまな経論を引き、その結論として、信心とは「阿弥陀如来の清浄願心の回向(賜物)」であると述べたあと、突然ひとつの問いを出します、「問ふ、如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓を発(おこ)したまへり、なにをもつてのゆゑに論主(天親)一心といふや」と。第18願には「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじ」と、至心・信楽・欲生の「三心」が上げられているのに、どうして天親菩薩は「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて」と、「一心」と言うのだろうか、というのです。
 まずこの問い自体に戸惑いを覚えます。いったい親鸞は何を問題にしているのだろうと思います。で、よくよく読んでいきますと、親鸞はどうやらこの二つの文を法蔵と天親の対話とみているのではないかと思えてきます。法蔵が「心を至し信楽してわが国に生れんとおも」え、と呼びかけているのに対して、天親が「われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願」ぜん、と応えていると。そのように読みますと、法蔵が三心を上げているのに、どうして天親は一心で応えているのだろうという問いが鮮やかに浮かび上がってきます。

タグ:親鸞を読む
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