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6月13日(月) [矛盾について(その314)]

 ぼくらが何かを与えるとき、それは「する」ことを与えているのです。「する」ことを与えるという言い回しはどこか変ですが、要するに何かを「してあげる」ということです。3.11の被災者たちの表情や声が伝わってきて、たくさんの悲しみをもらいました。また、その人たちを懸命に助け、支えている人たちの姿にも泣かされました。そして、被災者の苦しみと悲しみを少しでも軽くするために、ぼくも何かをしなければと思いました。
 何ができるか。一番はボランティアとして被災地に行き、そこで片付け作業なり、運搬作業なり、炊き出しなり、その他何でも自分のできることを「する」ことでしょう。それが無理なら、物資なりお金なりを差し上げて、少しでも被災者の力になることでしょう。いずれにしても、ぼくらができるのは何か「する」ことを相手のために差し出すことです。ボランティアとして働くのはもちろん「する」ことですが、物資や義捐金を差し上げることは「する」ことではないように見えます。しかし、物資やお金も、それを得るためにぼく自身が努力をしたのですから、それらを差し上げるということは、結局「する」ことを差し出しているのです。
 このように、ぼくらが与えることができるのは「する」ことです。そして、もう一度確認しておきますが、「する」ことを与える側は、それを「与える」と意識したとき、何らかの形の(精神的なものも含めて)お返しを期待し、与えられた側は、その裏返しとして何かお返しをしなければという負い目を感じます。与えることは与えられることと対になっているのです。
 しかし「いる」ことは違います。「いる」ことが与えられるとき、それは一方的で、ただ与えられるだけです。ぼくらはそれをほれぼれと受け取るだけ。

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