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いのちの環 [生きる意味(その67)]

(38)いのちの環
 生物というのはすごい濃縮工場なのです。そんなことにどうして気づかなかったのだろうと思うほど単純な事実です。ところが水俣湾に棲んでいる魚は、水俣湾の海水の濃度と同じに決まっていると思い込んでし まった。生物を生態系の中で生きたまま観察しないからです。
 環境や他の生物とのつながりの中で捉えようとせず、生態系から切り離して研究室に持ち込んで観察するものだから、そんな単純な事実に気づかない。魚の体内の有機水銀濃度を聞いて、生物の専門家がびっくりするという訳です。
 しかし、ぼくらもその専門家を笑えません。「いのちはひとつにつながりあっている」という単純な事実に気づかないで右往左往しているのですから。ぼくらは「生きる意味」という贈り物を誰かから与えられ、そしてその誰かはまた別の誰かから与えられるという形でひとつにつながりあっているのに、そうでなければ生きていけないのに、その単純な事実に気づかず、もがき苦しんでいるのですから。
 生物学者は、もともとひとつにつながりあっている生物たちの「いのちの環」をズタズタに切り刻んで、その細切れを顕微鏡で観察します。そうすることで個々の生物について非常に詳しい情報が得られるかもしれません。でも、ひとつにつながりあっていることから生まれる生物濃縮という単純な事実を見落としてしまう。
 同じように、ぼくらも、もともとひとつにつながりあっている心をズタズタに切り刻んで、ちっぽけな「ぼくの心」にすがりつこうとしているのではないでしょうか。そうすることで、ぼくの「する」ことは非常にうまくいくかもしれません。でも、ぼくの「いる」ことは、あなたの「いる」ことと、そしてみんなの「いる」こととひとつにつながりあっているという一番肝心な事実が見えなくなってしまうのです。

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