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5月20日(月) [はじめての親鸞(その144)]

 「なむあみだぶつ」が風土に馴染んでいるということは、それが「ありがとう」や「こんにちは」と同じように日常生活の中に違和感なく受けいれられているということです。言う方も自然だし、聞く方も自然だということです。
 しかし、そんな風土はもうなくなってしまいました。いや、念仏の風土がまだ息づいている地方がどこかに残っているかもしれませんが、それはもう無形文化財と言わなければなりません。今や、「ありがとう」と言うところを「なむあみだぶつ」などと言えば、頭がおかしい人間と見なされかねません。
 しかし、「ありがとう」と言うところを「なむあみだぶつ」と言う風土があったのなら、反対に「なむあみだぶつ」と言うところを「ありがとう」と言ってもいいではありませんか。「なむあみだぶつ」と言うところを「こんにちは」と言ってもいいではありませんか。それが「なむあみだぶつ」であることがはっきりしているなら。
 「なむあみだぶつ」の外形に囚われる必要はないのではないでしょうか。源左に「ようこそ、ようこそ」の念仏があるように、ぼくにはぼくの念仏があっていいと思うのです。それが「なむあみだぶつ」であることを忘れさえしなければ。
 聞名はそれだけで閉じられず、称名となってはじめて完結することを見てきました。信心と念仏は切り離すことができないということです。それが分離しますと、その隙間に「わたし」がしゃしゃり出てきて、「わたし」が信心し、「わたし」が念仏することになってしまうのです。

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