SSブログ
「『証巻』を読む」その55 ブログトップ

不行にして行ずる [「『証巻』を読む」その55]

(4)不行にして行ずる

「わがはからいがない」とは、何かをしようという思いがないということではありません。何かをする時、それをしようという思いは「わたし」の中にかならずあります(意識があるというのはそういうことで、したがって無意識のうちにすることはその限りではありません)。もしそれがないとしますと、その人はもう木偶の坊か、あるいはロボットであると言わなければなりません。さてしかし、何かをしようという思いを「わたし」が起こしたのかどうか、これが問題です。

国分功一郎氏の『中動態の世界』から教えられたことですが、古いインド=ヨーロッパ語族の動詞の態(voice)は「能動態と中動態」という対であったそうです。われらは「能動態と受動態」の対しか知りませんから、「する」か「される」かとしか考えられませんが、これはことばの歴史から言うと新しいことで(紀元前4世紀ごろのことだそうです)、それ以前は能動態に対するものとしてあったのは中動態だったというのです。この違いをぼく流に平たく言いますと、ある行いを「わたし」〈が〉起こすのが能動態で、それが「わたし」〈に〉起こるのが中動態ということです。

これをつかって言いますと、「わがはらかい」で何かをするというのは、何かをしようという思いを「わたし」〈が〉起こしている能動態であるのに対して、「わがはからいがない」というのは、何かをしようという思いが「わたし」〈に〉起っているのは確かですが、それを「わたし」〈が〉起こしているのではないという中動態です。さて還相のはたらき、すなわち「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」とする思いは、紛れもなく「わたし」〈に〉起っていますが、しかし「わたし」〈が〉起こしているのではありません。

「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」という思いを「わたし」〈に〉起こしているのは弥陀の本願力です。ここで「不行にして行ずる」と言われているのはこのことです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
「『証巻』を読む」その55 ブログトップ