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回向ということ [『末燈鈔』を読む(その171)]

(2)回向ということ

 短い文面から、どういう質問に対する返信なのか、なかなかつかみがたいですが、おそらく「回向とは何か」ということがテーマではなかったでしょうか。手紙文全体の中に回向ということばが五回も出てくることからもそう言えそうです。回向とはもともと「めぐらし向ける」ということで、善行を積み、その功徳を自分や他人の菩提のためにめぐらし向けることを意味します。
 ですから回向するのはあくまで「われら」であるはずですが、それをすべて「如来」の回向とするところに親鸞のコペルニクス的転回があります。ぼくらは回向するのではなく、回向されるということです。ぼくらは与えるのではなく、与えられるということ。あらためてこのことをじっくり考えていきたいと思います。
 能動と受動。
 ぼくらには能動的であるべきだという思いがあり、受動的であることを耐えがたく感じます。主体的と言っても同じで、ぼくらはあくまで主体的に生きるべきであり、客体的であることにはモノにされてしまったような屈辱感が伴います。あるいは自由ということばを用いますと、何よりも自由が大事で、自由を奪われるのはいのちを奪われるようだと思います。
 能動的と主体的と自由、これらはみな同じことを指し、ここにぼくらの生きる原点がありそうです。
 少し前のニュースで障害者の自立の問題が取り上げられていました。障害者にも働く場をということで、時間給を最低賃金よりも低く設定することが認められているそうです。そのことで企業も障害者を雇えるようになるのですが、しかしそれでは障害者が親から自立して暮らしを立てていけない。そこで市が企業に補助金を出して、最低賃金を、あるいは利益が出たときにはそれ以上の時間給を支給する試みが行なわれているというニュースでした。


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