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『中論』という書物 [はじめての『高僧和讃』(その4)]

(4)『中論』という書物

 聖道門諸宗が祖師と仰ぐ龍樹その人を浄土門七高僧の筆頭におしいただくからには、聖道門の説く境地と浄土門の境地とがどのように交差するのかを明らかにしなければならないでしょう。
 そこで、龍樹が有無の邪見を破り、空を説いたというのはどういうことか、そしてそれは弥陀の本願の教えとどう関係するのか、これを龍樹の著作から汲み取っていきたいと思います。まずは龍樹の代表作、『中論』です。この書物、分量的にはそれほど多いわけではありませんが、その内容たるや難解極まり、容易に人を近づけません。これまで何度か読解を試みましたが、その都度はねかえされ途中で挫折するという悲哀を味わってきました。最近になって何となく分かったかなと思えるようになったという次第です。
 『中論』は論争の書です。その相手は部派仏教の諸派、なかでも説一切有部(略して有部)の論者であろうとされます。
 説一切有部とは、その名のごとく「一切が有ると説く」グループで、部派のなかで最有力でした。龍樹がこの有部と争ったとしますと、彼は「一切は無である」と主張したのでしょうか。そうではありません。彼は「一切は有でもなく、無でもない」と主張したのです。これが「有無の邪見を破す」ということですが、さてではどのようにして「一切は有でもなく、無でもない」という議論を展開したのか、そのごく一部のさわりだけでもご紹介しておきましょう。
 第8章「行為と行為主体との考察」からその第1詩。
 「このすでに実在する行為主体は、すでに実在する行為をなさない。未だ実在していない行為主体もまた、未だ実在していない行為をなそうとは思わない」。
 どうにも日本語としてこなれていないという感じで、慣れないうちは「何を言いたいのだ」と癇癪を起してしまいそうになる文章ですが、これが龍樹独特のものの言い方です。

タグ:親鸞を読む
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