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神光の離相をとかざれば [親鸞の和讃に親しむ(その7)]

7.神光の離相をとかざれば

神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり(第14首)

ほとけのひかり相(かたち)なく、こころおよばぬほとけとぞ。ひかりとなれるほとけをば、諸仏ひとしくほめあげる

この和讃はことばが難しい。まず「神光」ですが、この「神」は「不思議なはたらき」を意味しますから、われらの無明の闇を晴らしてくれるという不思議なはたらきをする光明ということです。次の「離相」は、相すなわち「すがたかたち」を離れているということで、「とかざれば」は、説くことができない、つまりことばを超えているということです。だから無称光仏、つまり思いはかることのできない光の仏と名づけられるというのです(称とはここでは「はかる」ことを意味します)。さらに「因光成仏」には左訓があり、「光きはなからんと誓ひたまひて、無礙光仏となりておはしますとしるべし」とありますから、第十二願すなわち光明無量の願が成就して無礙光仏となられたと理解すべきでしょう。

この和讃は弥陀の光明は「こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と詠っているのです。

そもそも弥陀の光明は、われらがそれに遇って(気づいて)はじめて存在するようになるもので、それまでは影も形もありません。つまりそのご縁があってはじめて姿をあらわすのであり、ご縁というものは事後的にしか分からないものです。これがまず「こころもおよばれず、ことばもたえたり」と言わねばならないことであり、そして弥陀の光明に遇うということは、われらの我執が照らし出されることに他なりませんが、これまた「こころもおよばれず、ことばもたえたり」です。我執すなわち「わたし」に囚われていることは、それをわれらが自分の力で気づこうとしても金輪際気づくことができません。なぜならそれは気づいてはじめて存在するようになるのであり、それまでは影も形もないからです。これまたそのご縁があってはじめて姿をあらわすのです。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」(『教行信証』序)であり、そのご縁は「こころもおよばれず、ことばもたえたり」です。


タグ:親鸞を読む
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