SSブログ
『ふりむけば他力』(その114) ブログトップ

内部と外部 [『ふりむけば他力』(その114)]

(10)内部と外部

 外部があると気づくことと、実際に外部に出ることはまったく別のことです。それは牢獄の囚人を考えてみれば明らかで、彼はこの牢獄に外部があることは知っていますが、しかし外部に出ることはできません。囚人の場合には、以前塀の外に暮らしていて、ある日塀の中に入れられたのですから、そこが牢獄であり、その外部があることはもちろん知っていますが、われらは生まれてこのかたずっと物語の内部にいますから、そこが内部であること、そして外部があることも知りません。ところがあるとき思いもかけず気づかされるのです、そこは内部であり、その外部があるのだと。しかしそのことに気づいたからといって、外部に出ることができるわけではありません。依然として内部にいながら、しかし前と違って、ここは内部であり、したがって外部があることに気づいているのです。
 何度も言うようで恐縮ですが、外部があることに「気づく」ことと、外部を「知る」ことはまったく別です。われらは外部があると「気づく」だけであって、そこがどういうところかを「知る」ことはかないません、その外部に出ることができないのですから。さてしかし、ここで疑問が生じるかもしれません。外部のことを知ることができないと言いながら、それについて縁起とか無我ということばで結構いろいろ語っているではないかと。知ることができないということは語れないということではないかということです。なるほどもっともですが、縁起や無我ということばで何が語られているかを子細に見ますと、そこには肯定的な立言は見られず、あるのは否定的な言辞ばかりであることが分かります。
 前章で見ましたように、龍樹はその『中論』において縁起を空ということばで語っていますが、その冒頭の八不(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来)に象徴的にあらわれていますように、『中論』全編が否定で埋め尽くされていると言っても過言ではありません。彼は反対論者の揚言をことごとく否定し、縁起のことわりについて知ることができないことをこれでもかと述べているのです。彼にとって縁起や空ということばは「あらゆる存在に自性は〈ない〉」ということを言うための否定のことばにすぎず、存在のありのままの姿について「かくかくしかじかである」と肯定的に立ち上げるものではありません。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その114) ブログトップ