SSブログ
『教行信証』精読2(その175) ブログトップ

すなはちのとき必定に入る [『教行信証』精読2(その175)]

(6)すなはちのとき必定に入る

 龍樹は、われらが今生で行けるのは阿惟越致までだと考えていた節があります。今生で仏になるのは不可能であり(それはおそらくいのち終わってからのことであり)、今生この世においては「如来のいえに生ずる」ことができるだけであると。「如来のいえに生ずる」ことができれば、もうかならず如来になることが決まるのですから、これがわれらにとってのマキシマムであると考えていたのではないでしょうか。龍樹は往生ということばはつかいませんが、親鸞は「如来のいえに生ずる」ということばが往生を指していると考えたに違いありません。先に「歓喜地を証して安楽に生ぜん」とありましたのは、歓喜地を証する、つまり阿惟越致に至ることが、取りも直さず「如来のいえに生ずる」こと、つまり安楽浄土に往生することであるという意味でしょう。
 さて次に「自然にすなはちのとき必定にいる」です。われらが今生において行きうる最大限である阿惟越致すなわち必定にいたるのは、「弥陀仏の本願を憶念」したそのときであるということ。このもとになっているのが先に引用しました「ひとよくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちのときに必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる」という龍樹の偈文です。弥陀の本願を憶念したそのときに(すなはちのときに)必定つまり正定聚不退となる。親鸞浄土教の眼目とされる「現生正定聚」がここに固まったと言えます。そしてさらに正定聚となることは「如来のいえに生ずる」ことであり、如来のいえとは浄土に他なりませんから、正定聚となることは取りも直さず浄土に生まれることです。
 如来のいえに生まれるとは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となるということです。「わたしのいのち」にはそれぞれの名がついていますが、如来のいえに生まれますと、それに加えて「ほとけのいのち」としての名がつきます。その名は、言うまでもありません、南無阿弥陀仏です。ぼくには浅井勉という名がありますが、如来のいえに生まれますと、その名のままで南無阿弥陀仏を名のることになります。ぼくは浅井勉という名の「わたしのいのち」を生きるとともに、南無阿弥陀仏という名の「ほとけのいのち」を生きるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その175) ブログトップ