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死者としての仏 [『一念多念文意』を読む(その85)]

(12)死者としての仏

 『スッタニパータ』(最初期の経典です)を読みますと、生きたゴータマ=ブッダが登場してきて、修行者たちに教えを説いている姿が何とも自然に描かれています。
 この段階では、仏とは生きている人で、世界の真実のありよう(実相)を悟った人です。で、そのゴータマ=ブッダが修行者たちに親しく自分の悟ったことを教えるのですが、その教えの内容を突きつめますと、「わがもの」への執着から離れなさい、貪ることなく、怒ることなく、こころ安らかに生きていきなさいということに尽きます。おまえたちは「わがもの」があると思い込み、その思い込みから、欲を起し、怒りをもち、その結果こころがさまざまな苦しみに見舞われているのであり、その思い込みから離れることができれば、こころ安らかに生きていくことができるのだと。
 修行者たちはこの教えを実践してゴータマと同じように仏になろうとするのですが、さてしかし「言うはやすく行うは難し」です。「わがもの」への執着から離れればいいと言うものの、どうすれば離れることができるのか、思い悩み、考えあぐねしたに違いありません。何度も分からないところをゴータマに聞きながら修行を続けたことでしょうが、そのうちゴータマがこの世を去るときがやってきます。修行者たちの悲しみは如何ほどだったことでしょう。ゴータマ亡き後、どのようにして仏への道を歩んでいけばいいのか、頼りとする灯火が消えるような思いになったに違いありません。
 さあしかし、どうするもこうするもありません、いまは亡き仏を追憶するしかありません。生きた仏がいなくなってしまった以上、死んだ仏を想起するしかありません。このようにして「死者としての仏」が登場してきます。この仏はもはや目で見ることはできません、耳でその声を聞くこともかないません。ただその姿がこころに思い浮かび、その声がこころに聞こえてくるのを待つしかないのです。仏が現在存在から過去存在になったのですが、これはしかし決定的に重要な意味をもつ変化です。

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