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3月2日(金) [矛盾について(その577)]

 悪に立ち向かう「正義の怒り」というものがあるとしても、それをこちらから起こすことはできないことを忘れるわけにはいきません。怒りは、それがつまらないものであれ、意義あるものであれ、向こうからやってきてぼくらを鷲づかみにするのです。気がついたら怒りの虜になっている、これが怒りの本質です。
 としますと、目の前の悪に対して怒りをもって立ち向かうとは、自ら怒りを起こして、それを相手にぶつけるということではなく、向こうからやってきた怒りに形を与えて、それを相手に示すということです。
 ムラムラと湧き上がる怒りそのものと、それに形を与えて外に表すことは、はっきり分けなければなりません。
 ムラムラは何ともなりません、気がついたときにはもうこころの中にどっかと腰を下ろしているのですから。そしてそれは即座に形をとり外に跳び出て行くことがあります。キレるというのはそういうことです。でも、ムラムラがやってきたとき、「あっ、また腹の虫が」とこころの中を見つめるゆとりがありますと、それを抱きしめることができます。
 しかし、ときにはそのムラムラに形を与えて外に示す必要があるのではないでしょうか。沖縄の人たちが「怒」のプラカードを掲げたのは、ムラムラをそのまま収めてはいけないと思ったからでしょう。自分たちの怒りを外に表すことによって、政府の理不尽な政策に抗議し、それを変えさせようと思うからです。
 しかし、ムラムラがそのまま外に飛び出て行く(キレる)のと、それを一旦抱きしめた上で改めて形を与えるのとは微妙な違いです。虐待としつけは紙一重と言われるように、見分けるのが難しい。元は同じムラムラだからです。
 世の悪を弾劾するとき、ぼくらはともすれば正義づらをします。「われは善、かれは悪」と思っています。そうしますと相手も「われは善、かれは悪」と対抗してきますから、ただ憎しみが生まれるだけです。でも「われもかれもひとしなみに悪」という思いで相手の悪をたしなめますと、何かが違ってくるのではないでしょうか。

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