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覈(まこと)に其の本を求むるに [「『証巻』を読む」その86]

(3)覈(まこと)に其の本を求むるに

しかし、よくよく考えてみますと、この二つの解釈は実はその底で一つにつながっていると言わなければなりません。天親はあくまで「われら願生の行者」を主語として、いかにして浄土往生を実現できるかを説いていますが、その論述のところどころで「如来の本願力」に言及しています。「願生偈」の有名な一節に「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とありますし、園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)を説くところでは「(菩薩は)生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに」(これは第4回に読みました)と述べています。これを見ますと、われらが五念門を修して往生を得ることができ、また衆生を利他教化するのは確かですが、それが可能であるのも、実はそこに仏の本願力がはたらいているからだと言っているのです。

曇鸞もそうした天親の真意をしっかり汲み取っていることは、『論註』末尾の「覈求其本(かくぐごほん)」釈から窺うことができます。曇鸞は問います、菩薩は五念門の行を修して自利利他することで、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)を得ることができると天親は言うが、どうしてそんなことが言えるのだろうと。そしてそれにみずから答えて、「覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁(すぐれた力)となす」と述べているのです。菩薩すなわちわれら行者が五念門を修めて往生することができるのはその通りだが、実はそこには阿弥陀如来の本願力回向があるのだということです。かくして曇鸞はこう結論します、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」と。

そしてわが親鸞はこうした天親・曇鸞の深い洞察を受け、それをさらに大胆におし進めます。すなわち『浄土論』の主体である菩薩とは実は法蔵菩薩のことであるとするのです。天親・曇鸞にあっては、われら願生の行者が前面に出て、如来の本願力はその後ろに控えていましたが、親鸞においては如来の本願力が前面に据えられ、願生の行者は背景に退きます。われらが五念門を修するかに見えて、実は法蔵菩薩がすべての行をなしているのだと言うのです。


タグ:親鸞を読む
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