SSブログ
「信巻を読む(2)」その78 ブログトップ

古今もいまだあらず [「信巻を読む(2)」その78]

(8)古今もいまだあらず

親鸞の自釈のあと、禅宗の智覚と律宗の元照(がんじょう)の文が引かれます。

禅宗の智覚(北宋の禅僧)、念仏の行者を讃めていはく、「希なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。

律宗の元照師のいはく、「ああ、教観(教相と観法)にあきらかなること、たれか智者(智顗のこと。天台宗の祖)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順(華厳宗の祖)にしかんや。四衆(比丘‐僧、比丘尼‐尼僧、優婆塞‐在家の男性、優婆夷‐在家の女性)を勧め仏陀を念じて、勝相(勝れた瑞相)を感じて西に邁(ゆ)きき。禅に参(まじ)はり性を見ること、たれか高玉(唐代の禅僧)・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒(儒学者)、才ある、たれか劉(劉程之)・雷(雷次宗)・柳子厚(柳宗元)・白楽天にしかんや。しかるにみな筆をとりて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。以上

どの文も本願念仏の教えの優位性について述べています。禅宗の智覚は禅の傍ら念仏を修し、また元照によれば、あの天台宗を開いた智顗や華厳宗の祖・杜順も最後には浄土の教えに帰したと言うのですが、それはいったい何によるのでしょうか。釈迦が菩提樹下で得たと言われる悟りを天台宗も華厳宗も禅宗も目指すのに違いありませんが、それはしかしこちらから得ようとしても得られるものではなく、むこうから思いがけずやってくる「気づき」に他ならないことを浄土の教えは本願名号というメタファーにより見事に表しているからであると考えられます。

智顗や杜順といった聖道門の高僧たちは、こちらから必死に悟りを追い求めてきましたが、浄土の教えに接して、真理はむこうからやってくることに思い至ったということではないでしょうか。このすぐ後に、聖道門諸宗のことを「真」に対する「仮(方便)」ということばで言われますが、それは「むこうからやってくる真理に気づく」という他力が「真」であるのに対して、「こちらから真理を追い求める」という自力は「仮」であるということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その78 ブログトップ