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横さまに超える [「信巻を読む(2)」その36]

第4回 横さまに超える

(1) 横さまに超える

「横超断四流」釈のつづきで、『大経』と『大阿弥陀経』からの引用です。

『大本』(『大経』)にのたまはく、「無上殊勝の願を超発す」と。

またのたまはく、「われ超世の願を建(た)つ、かならず無上道に至らんと。名声(みょうしょう)十方に超えて、究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじ」と。

またのたまはく、「かならず超絶して、去(す)つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を截(き)り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極(ぐうごく)なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」と。以上

『大阿弥陀経』 支謙三蔵の訳 にのたまはく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るにこれ極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず、自然の牽くところなり」と。以上

「横超断四流」は善導のことばでしたが、その「横超」に当たることばを経典に探り、これらの文が上げられています。「無上殊勝の願を〈超〉発す」、「われ〈超〉世の願を建つ」、「かならず〈超〉絶して、去つることを得」の「超」ということば、そして「〈横〉に五悪趣を截り」の「横」いうことばは、いずれも「時間の秩序」を「横さまに超える」ということを意味します。われらは否でも応でも時間のなかで生きていますが、その時間の秩序を「横さまに超える」ものがあるということです。

「横超断四流」に関する親鸞の自釈のところで、自力と他力の対立についていろいろ考えましたが、それを時間との関係でいいますと、自力は「これから」であるのに対して、他力は「もうすでに」であると言えます。自力とは「みずからの力で何かを得る」ということで、それは本質的に「これから」です。みずからの力で「もうすでに」得てしまったこともあるではないかと言われるかもしれませんが、しかしみずから得てしまったことも、それで終わりというわけにはいきません、それを失くしてしまわないように「これから」も努力しつづけなければなりません。それではじめてほんとうに「みずから何かを得る」と言えます。その意味で自力の本質は「これから」です。


タグ:親鸞を読む
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