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『教行信証』精読(その48) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その48)]

(2)本文1

 「われらの念仏」と「諸仏の称名」についての疑問は疑問のままに取っておき、本文に進みましょう。

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。この行はすなはちこれ、もろもろの善法を摂(せっ)し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟(ししゃ)の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

 (現代語訳) つつしんで往相の回向を考えてみますと、大行と大信とがあります。大行といいますのは、無碍光如来のみなを称えることです。この行はあらゆる善きものをその中に包み込んでおり、あらゆる功徳のもとを具えていまして、速やかに功徳を行者の身に満足させてくれます。それは真理そのものとして、功徳に満ちた宝の海ですから、大行というのです。ところでこの行は弥陀の大悲の願から出てきており、その願は「諸仏称揚の願」とも「諸仏称名の願」とも「諸仏咨嗟の願」とも「往相回向の願」とも「選択称名の願」とも名づけることができます。

 「教巻」冒頭に「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」とあったのを受け、「行巻」の冒頭で、往相の回向に大行と大信があると述べているのですが、ここは「行巻」ですから往相回向として大行があるとだけ言えばよさそうなのに、あえて大信も持ち出してきます(因みに「信巻」の冒頭には「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり」とあります)。
 これは、前にもふれましたように、行と信は切り離しがたくひとつであるからでしょう。行だけがあって信がないということはなく、また信だけがあって行がないこともありません。つねに行と信はひとつながりです。「信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし」とは手紙の中の親鸞のことばです。

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