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もうすでに聞こえていた [『唯信鈔文意』を読む(その42)]

(13)もうすでに聞こえていた

 一方では主観的に存在するだけで十分と言いながら、他方で誰にとっても存在すると言うのは理不尽ではないかということです。
 改めて南無阿弥陀仏に遇う瞬間に立ち返りましょう。あるときふと南無阿弥陀仏の声が聞こえた。その声はそのとき聞こえたのに違いないのですが、不思議なことに「もうすでに聞こえていた」と感じます。「もうとっくの昔から聞こえていたのに、どういうわけか、これまではそれにまったく気づかず、いまはじめて気づいた」と思うのです。
 これまで何度も指摘してきましたように、「会う」は基本的に未来形であるのに対して、「遇う」は現在完了形です。「会う」のは「これから」ですが、「遇う」のは「もうすでに」だということ。「聞こえる」も「遇う」と同じで、「もうすでに聞こえていたことにいま気づく」のです。
 これが「みづから」ということです。南無阿弥陀仏はこちらから呼び寄せたのではなく、「みづから」近づいてくださっていたと感じるのです。これまでうかつにもそのことに気づかなかったが、いまようやく気づいたと。としますと、そう気づいたのはこのぼくであり、気づかない人には南無阿弥陀仏はどこにも存在しませんが、でも南無阿弥陀仏はいつでもどこでも誰にでもあると感じる。
 誰かが「きみがそう思うのは勝手だが、ぼくには何のことかさっぱり分からないよ」と言うとしますと、「残念ですが、この声はどういうわけか、ある人には聞こえ、ある人には聞こえないという具合になっているようです。でも聞こえるときは、だれにでも聞こえると感じるのです」と答える他ありません。


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