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本師源空世にいでて [親鸞の和讃に親しむ(その75)]

(5)本師源空世にいでて(これより源空讃)

本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ(第98首)

本師源空世にいでて、弘願一乗ひろめては、日本全国すみずみに、浄土の機縁あらわれた。

いよいよ七高僧最後の源空を讃えるうたです。ここで源空が世に出でて、日本に浄土の教えが広まる機縁があらわれたと詠われますが、浄土の教え、念仏の教えは源空よりずっと前から日本にあったことは言うまでもありません。平安初期に円仁が入唐し法照流の念仏を持ち帰って以来、延暦寺に「山の念仏」の伝統が形成され、すぐ前のところで見てきました源信はその流れの中で『往生要集』に念仏の教えを集大成したわけですし、空也に代表される民間の念仏者たちの影響力も無視できません。かくして浄土教は末法思想とともに平安後期に大きなうねりとなっていました。では親鸞がこの和讃で「本師源空世にいでて云々」と詠うのはどういうことでしょう。それに対する答えは「弘願の一乗ひろめつつ」の一句に集約されています。「弘願の一乗」とは、弘願すなわち本願の教えが、一乗すなわちただひとつの乗り物であるということで、すべての人がこのひとつの教えにより救われるということです。

念仏の教えが以前からあったというものの、それはさまざまな宗派に寄寓して、それぞれの宗派の教えとともに併修されるものにすぎませんでした。たとえば延暦寺は天台の円教(法華経の教説が「完全な教え」であるとして円教といいます)を軸として、密教(空海の東密に対して台密といいます)、律、禅、念仏を統一した総合仏教の殿堂であり、念仏はその一隅を占めているにすぎません。いわば母屋の軒先を借りていたわけですが、源空はそれを一箇の独立した教えとして、しかもこれまで蚊帳の外に置かれていた下々の民衆を救う仏法として打ち出したのです。その独立宣言が『選択本願念仏集』でした。興福寺の貞慶がこの専修念仏宗の禁止を求めて朝廷に提出した「興福寺奏状」(1205年)の第一カ条に「勅許も得ずに新宗を立てる失」を上げているところに、源空が何をしようとしたかがよくあらわれています。


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