SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その83) ブログトップ

正像末の三時には [親鸞の和讃に親しむ(その83)]

(3)正像末の三時には

正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり 像季(ぞうき、像法の末期)・末法のこの世には 諸善(定散二善)竜宮にいりたまふ(第4首)

正像末を通じてぞ、弥陀の本願かがやけり。像末二時のこの世では、聖道自力かくれたり

どうして正像末の歴史観と浄土の教えが結びつくのかを考えてきました。ひと言で整理しておきますと、「いま」についての自覚(これが末法思想です)は「わたし」についての自覚(これが機の深信です)に他ならず、その自覚があってはじめて本願の気づき(これが法の深信です)がひらけるということでした。さて、もし正像末史観が客観的な歴史観であるとしますと、末法と区分された時代になってはじめて本願の教えがひろまることになりますが、見てきましたように、正像末史観は「いま」についての自覚(気づき)ですから、誰かが「いま」は末法の世だと自覚したとき、そこに末法の世が現出し、そしてその自覚から弥陀の本願の深信がひらけてくるわけです。したがってどの時代であっても、「いま」を末法と自覚したとき、そこに弥陀の本願は姿をあらわします。これが「正像末の三時には、弥陀の本願ひろまれり」ということです。

ではつづく「像季・末法のこの世には 諸善竜宮にいりたまふ」はどういう意味でしょう。「正像末の三時」に「弥陀の本願」がひろまるとしますと、どの時代でも聖道の諸善は陰に隠れているのではないのでしょうか。ここで考えなければならないのが「縁」ということです。またあの「弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という『教行信証』「総序」の一文を手がかりにしたいと思います。弘誓すなわち「弥陀の本願」は「正像末の三時」にひろまっていて一切の衆生のもとに漏れなく届けられているのですが、実際にそれに遇うことができるには、その機縁が熟していなければなりません。そうでなければ「多生にも値ひがたく」「億劫にも獲がたし」と言わなければなりません。しかし「たまたま行信を獲」ることができますと、もう聖道の諸善は陰に隠れるしかなくなってしまいます。これが「像季・末法のこの世には 諸善竜宮にいりたまふ」ということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その83) ブログトップ