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偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その10]

第2回 はじめに願いありき

(1)  偈文1

冒頭の二句、「帰敬偈」です。

帰命無量寿如来 南無不可思議光

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も「南無阿弥陀仏」ということで、「正信偈」六十行・百二十句はこの「南無阿弥陀仏」に収まると言えます。

ある方が御母堂のことを思い出しながら、「そういえば、おふくろは誰かと話をするとき、話の最後にいつも『なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』とつけていたなあ」と述懐されたのが印象に残っています。それを聞いて思い出したのが、ぼくがまだ小さかった頃のことですが、家の近くにちょっと変わったお婆さんがいて、いつも「ありがたい、ありがたい」とつぶやいていたことです。ある暑い日、道に水うちをしていた人から、着物の裾に水をかけられたのですが、そのときも「ありがたい、ありがたい」とつぶやいて、水をかけた人を驚かせたそうです。そのお婆さんの「ありがたい」は先の御母堂の「なむあみだぶつ」です。

親鸞は「正信偈」をはじめるに当たり「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と称えているのです。

「なむあみだぶつ」の「なむ」ですが、これは梵語の「namo」の音をとって「南無」としています。では「namo」とは何かといいますと、「namah」すなわち「敬礼します」の語尾が変化したもので、いまもインドでは「namas te」(ナマステ)すなわち「あなた(te)に敬礼します」ということばが「こんにちは、さようなら、ありがとう」を意味する挨拶語としてつかわれています。次に「あみだぶつ」ですが、これは「あみだ」と「ぶつ」に分かれ、「あみだ」は梵語の「amita()yus」あるいは「amita()bha」の「amita()」の音を取り「阿弥陀」としています。「amita()」の意味は「無量」で、「amita()yus」は「無量のいのち」、そして「amita()bha」は「無量のひかり」の意味になります。「ぶつ」も梵語の「buddha」の音を取り「仏陀」として、それを「仏」と略したものです。「buddha」とは「目覚めた人」の意味です。


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「正信偈」の構成 [「『正信偈』ふたたび」その9]

(9)「正信偈」の構成

かくして本願名号の恩を知り、賜った功徳に報ずるために「正信偈」をつくるとして、親鸞はこう述べます、「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈を閲して、仏恩の深遠なるを信知して、『正信念仏偈』を作りていはく」と。さて、六十行、百二十句からなる「正信偈」の構成を見ておきますと、最初に「帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)」の一行、二句がきます。「帰敬偈(ききょうげ)」とよばれ、これは「願生偈」冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」に当たります。

次いで「法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩の因位の時)」から「難中之難無過斯難(難のなかの難これに過ぎたるはなし)〉までの二十一行、四十二句が「依経段(えきょうだん)」とよばれます。『大経』に依拠して弥陀・釈迦二尊を称える段で、その前半(「必至滅度願成就(必至滅度の願成就なり)」まで)が弥陀を、その後半(「如来所以興出世(如来、世に興出したまふゆゑは)」から)が釈迦を称えて詠われます。そしてその後、「印度西天之論家(印度西天の論家)」から「必以信心為能入(かならず信心をもつて能入とす)」までの三十六行、七十二句が「依釈段(えしゃくだん)」とよばれます。高僧たちの論釈に依拠する段ということで、はじめの二行、四句がその序に当たり、つづいて龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空の七高僧が次々に称えられます。

そして最後に「弘経大士宗師等(弘経の大士・宗師等)」から終わりの「唯可信斯高僧説(ただこの高僧の説を信ずべし)」までの二行・四句が「結び」になります。それにしてもたった六十行、百二十句のなかに浄土真宗の要義をすべて畳み込むというのは何とも卓越した能力であると言わざるをえません。ただ、あまりにも濃縮されているがゆえに、それを完全に理解するのはなかなか困難であるとも言えます。じっくり味わわせていただくことにしましょう。

(第1回 完)


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われ一心に尽十方無礙光如来に帰命し [「『正信偈』ふたたび」その8]

(8)われ一心に尽十方無礙光如来に帰命し

親鸞は天親『浄土論』の「願生偈」をモデルとして「正信偈」を作ろうとしたのに違いありません。だからこそその注釈書である『論註』を披き、そこからこの文を引いてきたと思われます。

この文は「願生偈」の冒頭、「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」という一文を注釈するなかに出てくるものです。天親はどうして「願生偈」の頭にこの一文を持ってきたのかを解説して曇鸞が言うのは、第一に「理よろしくまづ啓すべし」ということです。何を置いても、まず自分の願いとするところをはっきりと申し上げるべきであるというのです。そしてさらに、その願い、すなわち安楽国に生ぜんという願いは非常に重いものですから、それは如来の威神力(本願力)によるしかないと言います。だから冒頭で「われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と述べているのだと。

ここで「神力を乞加す、このゆへに仰いで告ぐ」と言われていますが、この言い回しからは、天親が往生せんとして如来に威神力を加えてくださるよう乞いたてまつり、その願いに応えて如来が往生させてくださるような印象を受けるかもしれませんが、そうではないということに注意しなければなりません。われらがこちらから往生を願うから、如来がその願いをかなえてくださるのではありません。逆です。まずもって如来によりわれらの往生が願われているから、われらが往生を願うことができるのです。如来がわれらに「帰っておいで」と呼びかけてくだっているから、われらに「帰りたい」という願いが生まれるのです。

われらが「帰りたい」と願えば、それがかなえられるのは何故かと言えば、それが如来自身の願いであるからです。「もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする」と言われるのはそのことで、もし如来がわれらの往生を願って本願力をはたらかせてくださらなかったら、われらがどれほど往生を願ったとしても、それが実現する保証はどこにもありません。


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報仏・報土とは [「『正信偈』ふたたび」その7]

(7)報仏・報土とは

そして最後に、そんなわれらを摂取してくださる仏は報仏であり、そして浄土は報土であるとされますが、報仏・報土といいますのは本願が報いられて生まれた仏・仏土ということで、化仏・化土に対することばです。

われらは仏と言い、仏土と言えばどこかにそのような実体が存在するかのように思い浮かべるものですが、そのようなものは化仏であり化土と言わなければなりません。それに対して報仏・報土とは、本願のはたらき(本願力)そのものを「人格」としてあらわし、またそのはたらきを「場」としてあらわしたものに他ならず、そのような「人格」や「場」がそれ自体としてどこかに存在するわけではありません。わが身の上に本願のはたらきが感じられたとき、そこに仏がおわしまし、そこが浄土です。

これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり」と言われるのはそのことで、報仏と言い、報土と言っても、それは不可思議な誓願のはたらきが一面の海のように広がっているということだと言っているのです。そして『大経』が言わんとすることも、浄土の真実の教え(浄土真宗)というのも、それをおいて他にないということです。

さて以上、浄土真宗の核心を手短に述べたあと、これから「正信念仏偈」を作る趣旨が次のように述べられます。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静(どうじょう)おのれにあらず(自分勝手なふるまいをしない)、出没(しゅつもつ、出入り)かならず由(ゆえ)あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓す(申し上げる)べし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加(こつか)す、このゆへに仰いで告ぐ」とのたまへり。以上

しかれば大聖(釈迦)の真言(真実の教説)に帰し、大祖(七高僧)の解釈(げしゃく)を閲(えつ)して、仏恩の深遠(じんのん)なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく


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罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫 [「『正信偈』ふたたび」その6]

(6)罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫

以上、真実の行信について見てきましたが、それに対して方便の行信があると言われます。それが何であるかはまったくふれられていませんが(これは『教行信証』の最後の巻「化身土巻」のテーマです)、ひと言しておきますと、真実の「行」・「信」はいずれも如来から与えられるもの(他力の行信)でしたが、それに対して方便の「行」・「信」はわれら自身がそれをなすことにより往生を得ようとするもの(自力の行信)です。「選択本願の行信」はわれらが自力でなすものではなく、如来から賜るもの、すなわち他力の行信であるということです。

さてその後に「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」と述べられますが、これまた一切説明はありませんので、ひと言ずつしておきましょう。

まず「機」すなわち本願名号の行信を賜るわれらについては、「老少・善悪のひとをえらばれ」(『歎異抄』第1章)ないこと、したがって「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」(同)ということです。本願名号の行信を賜るには、それに相応しい身でなければならないと考える必要はまったくないというのです。なぜなら、われらはみな「わたしのいのち」を生きる以上、もとより罪悪深重・煩悩熾盛であり、そのようなわれらのために本願名号が用意されているからです。

次に「往生」について「難思議往生」とされるのは、罪悪深重・煩悩熾盛の「わたしのいのち」が、そのような「わたしのいのち」のままで摂取されること、これはもう難思議、すなわち「こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と言わなければならないからです。「善き人」は「善きところ」を得、「悪しき人と」は「悪しきところ」に堕ちるもので、またそうでなければ世のなか回らないと思うのが常であって、「悪しき人」が「悪しき人」のままで摂取されるというのは、これはもうわれらの思議をはるかに超えているというしかありません。


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賜りたる信心 [「『正信偈』ふたたび」その5]

(5)賜りたる信心

「行」が与えられるとは、本願とその名号が如来からわれらに届けられるということでしたが、では「信」が与えられるとはどういうことでしょう。

本願名号がわれらに送り届けられていても、われらがそれに「気づく」ことがなければ、それはわれらにはたらく力(救済の力)となることができません。どれほど本願名号に取り囲まれていても、われらが眠りこけていて、それに目覚めなければ、存在しないのと変わりありません。「信」とは本願名号に「気づく」こと、それに「目覚める」ことです。第十八願に「十方の衆生、心を至し信楽して」とありましたのは、われらがみな本願名号に気づくようになり」と言っているのです。

本願名号の「気づき」すなわち信心がおこるのは「わたし」ですが、しかし「わたし」がその「気づき」をおこすことはできません。

何かに「気づく」とは、それに「遇う」ことです。そして何かに「遇う」ことは、こちらからはからってできることではありません、あるとき「たまたま」遇うのです(「遇」は「たまたま」を意味する「禺」と「いく」を意味する「辶」が合わさり、思いがけず道で「あう」ことを指します)。そしてさらに何かにたまたま「遇う」とは、そこにそのような「縁」があったということです。「縁」という「見えないつながり」(赤い糸)は、われらが逆さまになっても自分でそれをつかみ取ることはできません。われらは「縁」につかみ取られるのです。

親鸞は『教行信証』の「序」において、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」と述べていますが、これは本願名号に遇うことは縁によるのであり、こちらからどれほど遇いたいと思ってもできることではないと言っているのです。だからこそ「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言わなければなりません。本願名号に遇う縁があったことはどれほど慶んでも慶びたりないということです。そして、これが本願名号の信心(気づき)は「わたし」がおこすことはできず、如来から賜るしかないということです。


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心を至し信楽して [「『正信偈』ふたたび」その4]

(4)心を至し信楽して

では「至心信楽の願」をどう読むべきでしょうか。まず、この願を含む四十八願がどのような状況において誓われているかを見なければなりません。『大経』によりますと、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行していたとき、生死勤苦(ごんく)の衆生を漏れなく救うための浄土を建立せんとして、二百十億の諸仏の浄土を参考にしてこの上ない殊勝の願をたてられ、世自在王仏に「やや、聴察を垂れたまへ。わが所願のごとくまさにつぶさに説くべし」と述べるのです。すなわちこれらの願は「われら」に向かって誓われているのではなく、「世自在王仏」に「わたしが五劫思惟してたてた願はこのようなものです」と開陳しているのです。

そしてそれぞれの願はみな「たとひわれ仏を得たらんに」ではじまり、「正覚を取らじ」で終わるという形になっています。たとえば第一願は「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」というもので、これは法蔵菩薩が世自在王仏に向かい、「わたしが仏になるときには、かならずわが国に地獄・餓鬼・畜生がないようにしたい、そうでなければわたしは仏になりません」と誓っているのです。それを頭において、もう一度「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ」を読んでみましょう。そうしますと、これはわれらに対して、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」しなさい、そうすればかならず往生させましょうと言っているのではないことが明らかです。

ではどう言っているのかといいますと、世自在王仏に向かって「わたしが仏となるときには、十方の衆生が、心から信じてわが国に生まれようと思って十回でも念仏するようになり、そして往生できるようにしたいと思います。もしそれができないようでしたら、わたしは正覚を取りません」と言っているのです。すなわち「信」も「行」もそして「証」である往生も如来からわれらに与えられるということです。


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行も信も [「『正信偈』ふたたび」その3]

(3)行も信も

これで見ますと、諸仏が弥陀の名号を称えるのは、弥陀の本願とそれにもとづく浄土の素晴らしいありようを十方世界のあらゆる衆生に知らしめるためであることがよく分かります。弥陀の本願とは「十方世界のあらゆる衆生を救いたい(わが浄土に往生させたい)」ということですが、それがただ「願い」としてあるだけでは力にならず、その「願い」を一切衆生のもとに届けなければなりません。親がわが子に「幸せになってほしい」とどれほど願っても、ただ心に願うだけでは子にとっての力とならず、その願いをことばや行いで子に伝えてはじめて子が力強く生きていく糧になります。

さてでは弥陀の本願をどのようにしてあらゆる衆生に伝えることができるでしょう。五劫思惟の結果出された結論は、その願いを「南無阿弥陀仏」という名号に込めて、十方世界の諸仏にその名号を称えさせ、それをすべての衆生に聞かしめるということです。これが「諸仏称名」ですから、弥陀の名号を称えるという行はわれらの行ではなく、諸仏が為す行であることが分かります。かくして〈まず〉「行」があることが明らかになりましたが、では「信」とは何でしょう。

「行」とは、われらがなすのではなく如来がなし、われらに与えられることを見てきましたが、「信」もまた、われらが与えるのではなく、如来からわれらに与えられると言わなければなりません。

真実の信の願として上げられている第十八願すなわち「至心信楽の願」は、「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ」というものです。これを何気なく読みますと、「十方の衆生」が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」<すれば>、かならず往生させようと言っているように見えます。もしこの読みが正しいとしますと、「至心信楽」も「欲生我国」も「乃至十念」もみな「われら」が為すことであり、<そうすれば>往生させていただけることになります。つまり「信」は、われらが為し、われらが与えるものであるということです。しかしそれは「至心信楽の願」の本意ではありません。


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行信ということば [「『正信偈』ふたたび」その2]

(2)行信ということば

「正信偈」には序文がついていますので、それを読んでおきましょう。前後二段に分け、まず前段から。

 

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

 

はじめに「行信」ということばについて。まず「行」があり、そして「信」があるということで、『教行信証』の構成も、先に「行巻」(第2巻)、次いで「信巻」(第3巻)となっています。これはしかしわれらの常識に反すると言わなければなりません。普通に考えますと、まずあることを信じ、その上でそれを行うという順序になるもので、何かを行ってから信じるというのは逆さまでしょう。としますと、ここで「行」と言い、「信」と言われているものは、われらが普通に行・信という語から思い浮かべることとは異なるということになります。

ここで「行」と言われますのは、その願が第十七の願、その名も「諸仏称名の願」であることからも分かりますように、われらがわれらのはからいで為す行ではなく、如来が如来のはからいで為す行のことです。その行とは、言うまでもなく「南無阿弥陀仏」と称えることですが、しかしそれをわれらが称えるのではなく、諸仏が称えるのです。われらは称名念仏と聞きますと、それはわれらが為すものであり、それ以外の何ものでもないと思いますが(ぼくは長い間そう思い込んでいました)、称名念仏はそもそも諸仏が為すものであること、これをまず確認しておきたいと思います。

しかし諸仏が称名念仏するとはどういうことでしょう。そのことにどんな意味があるのかは『大経』の第十七願を見るだけではあまり明瞭ではありませんが、『大経』の古い異訳本(『無量寿経』には『大経』を含めて五つの漢訳が残されています)の該当する願を見ますと、こうあります、「わが名字をもってみな、八方上下無央数(むおうしゅ、無数)の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん」(『大阿弥陀経』)と。


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はじめに [「『正信偈』ふたたび」その1]

回 正信偈とは

(1)  はじめに

これから「『正信偈』ふたたび」と題してお話してまいりたいと思いますが、「ふたたび」と銘打ちましたものの、正確に言いますと「みたび」となります。で、思いますのは、自分で言うのも何ですが、回を重ねるにしたがって話が深まっているということです。一度目よりも二度目の方が、話の根本は変わらないものの、それを言語化するときに深みが増していると自分で感じます。そして二度目より三度目の今回、さらに深めていかなければならないと思っています。

さて『正信偈』とは何かということについては、真宗の門徒衆にとっては、日々のお勤めのなかで読誦されているでしょうから、いまさらあらためて言うまでもないでしょうが、ぼく自身がそうであるように、真宗の門徒ではないが親鸞という人と思想に関心をもって学んでみようという方もおられると思いますので、一通りのことをお話しておきたいと思います。

「正信偈」、正式には「正信念仏偈」と言い、「正しい信心と念仏の偈(うた)」ということですが、「帰命無礙光如来 南無不可思議光」とはじまりますように、七言を一句とし、六十行、百二十句で構成されています。親鸞の主著であります『教行信証』(真宗では『本典』とよばれます)の第二巻「行巻」の末尾におかれています。その体裁から言いますと、「行」すなわち称名念仏のまとめとしてつくられたように見えますが、その正式名称に「正信」が入っていることからも窺えますように、これは「行巻」にとどまるものではなく、次の「信巻」にも関係し、もっと言えば『教行信証』のすべてがそこに入っているとも言えます。

実際、『教行信証』のダイジェスト版と言える『浄土文類聚鈔』(『略典』とよばれます)では、「教」・「行」・「信」・「証」のすべてが説かれた後に「正信偈」(こちらでは「念仏正信偈」と言われます)が置かれています。そこからしましても「正信偈」は、それだけで本願念仏の教えのエッセンスがすべて盛り込まれていると考えることができ、蓮如がこれを和讃とともに開版印刷して、門徒衆の日々のお勤めのなかに組み込んだのはまことに慧眼だと言わなければなりません(それまでは善導の『往生礼讃』が日々の勤行で読誦されていたようです)。


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