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正定聚と滅度 [「『おふみ』を読む」その29]

(4)正定聚と滅度

まず正定聚と滅度は一つか、それとも別かという問いを立て、明らかに別であると答えます。正定聚は今生の利益、滅度は来生の利益だというのです(これを浄土真宗の教学では現当二(げんとうに)(やく)といいます)。それはそうに違いありませんが、それにしても、以上おわりでいいのでしょうか。生きている間は正定聚で、死んでから滅度に至るという具合に平面並べられて、はいさようですか、と胸におさまるでしょうか。ここでも、先の平生業成の場合と同じで、親鸞浄土教の持つインパクトが伝わってきません。

そこで正定聚と滅度の関係をあらためて考えてみましょう。正定聚とは「かならず仏になることが定まる」ことで、滅度は「実際に仏になる」ことですから、この二つが並べられますと、おのずと後者にウエイトがかかることになり、前者はただそこに至る前段階にすぎないというニュアンスになって、やはり眼はどうしても来生に向かうことになります。そこに風穴をあけたのが親鸞で、大事なのは現生において「かならず仏になることが定まる」ことであり、「実際に仏になる」のはそこから出てくる結果にすぎないと言うのです。

親鸞の「信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)という文は正確に理解しなければなりません。

これは一見、信心をえたそのときに往生できることが決定される、と読めます。しかし、往生できることは、そのときに決まったわけではありません。もうとうのむかしに決まっているのです。そう、十劫のむかし、法蔵の誓願が成就したそのとき、決定したのです。もうわれらは生まれる前から、往生できることが定まっているのです。ところがその大事なことに気づかないまま、これまで生死の迷いのなかにあったのですが、いま法蔵の誓願に遇うことができ、ようやく「もうすでに救われている」ことに気づいた。これが「信心の定まるとき往生また定まる」ということです。


タグ:親鸞を読む
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