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『歎異抄』を聞く(その22) ブログトップ

第2章の第1段 [『歎異抄』を聞く(その22)]

           第3回―地獄は一定すみか(第2章)

(1)第2章の第1段

 御物語10章の中でいちばん長い章ですので、3段に分けて読んでいきたいと思います。まずその第1段。

 をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくく(不審に)おぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にも、ゆゆしき学生(がくしょう、学者)たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひと(善知識、法然上人)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 (現代語訳) みなさんはるばる10余か国の国境を越えて、命がけでわたしを訪ねてくださったのは、ひとえに極楽往生の道を尋ね聞こうと思ってのことでしょう。しかし、念仏より他に往生の道を知っているとか、また特別な教えの説かれた法文などを知っているのではないだろうかといぶかしくお思いでしたら、それはとんでもない間違いです。もしそうでしたら、興福寺や延暦寺にも、すぐれた学者がたくさんおられますから、その方々に会われて、往生の要点をしっかり聞かれたらよろしい。わたし親鸞におきましては、ただ念仏して阿弥陀仏にたすけられるのだと、よきひと法然上人の教えをうけて、それを信じる他に取り立てて何もありません。

 これだけの短い文からひとつの鮮やかな光景が浮かび上がってきます。

タグ:親鸞を読む
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