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専雑の執心、浅深を判じて [「『正信偈』ふたたび」その100]

(2)専雑の執心、浅深を判じて

『往生要集』という書ですが、こんなことばではじまります、「それ往生極楽の教行は、濁世末代に目足なり。…このゆゑに、念仏の一の門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし」と。これを見ますと、この書は濁世末代のいまにおいて、念仏によって極楽に往生する教えの他にたよるべきものはないとし、その教えについての要文を集めたものであることが分かります。そして全体を十章に分けて念仏往生に関するあらゆる問題を網羅しており、日本ではじめて浄土の教えを体系的に説いた書と言えます。なお、第一章が「厭離穢土」、第二章が「欣求浄土」と名づけられ、ここから「厭離穢土、欣求浄土」という対句が浄土の教えを象徴することばとして流布するようになります。

さて第3・4句の「専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり」ですが、これはどういうことでしょうか。

まず報土と化土については、道綽が『安楽集』において阿弥陀仏の極楽は報土であるか化土であるかという問いを出し、「現在の弥陀はこれ報仏(因位の願行に報いて成就した仏)、極楽宝荘厳国はこれ報土なり」と答えていますし、それを受けて善導も『観経疏』において同じように、「問ひていはく、弥陀の浄国はこれ報なりや、これ化なりや。答へていはく、これ報にして化にあらず」と述べています。これは古来、浄影寺慧遠(じょうようじえおん)や天台智顗(ちぎ)といった人たちによって阿弥陀仏は化身であり、その国土も化土であるとされてきたことへの反論として述べられているものです。ここから了解できますのは、報土とは弥陀の本願により成就した真実の浄土であるのに対して、化土とは人を仏道へと導くための方便の浄土であるということです。

そして専修と雑修の区別は、善導が往生の行を五つの正行とその他の雑行に分ち、正行をさらに称名という正定業と、読誦・観察・礼拝・讃嘆供養の助業に分けたことによります。善導はいいます、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆえなり」(『観経疏』「散善義」)と。これが専修であり、それ以外のさまざまな行をまじえて修することが雑修です。


タグ:親鸞を読む
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