SSブログ
「『証巻』を読む」その32 ブログトップ

第4回、本文1 [「『証巻』を読む」その32]

第4回 往相と還相

(1)  第4回、本文1

前回の終わりのところで「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり」と締めくくられました。ということは、これで「証巻」は終わりかと思いますが、あにはからんや、次の文がつづきます。

二つに還相(げんそう)の回向といふは、すなはちこれ利他(りた)教化地(きょうけじ)(やく)なり。すなはちこれ必至補処(ひっしふしょ)の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願を名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。『註論』(論註のこと)に(あらわ)れたり。ゆゑに願文を出さず。『論の註』を(ひら)くべし。

「二つに還相の回向といふは」ときますが、では「一つに」はどこにあるかといいますと、それはすぐ前の締めの文、「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり」です。ここで「真宗の教行信証」と言われているのが、一つ目の往相の回向を指しているのです。すなわち、これまで「教巻」にはじまり、「行巻」、「信巻」ときて、「証巻」のここまで進んできましたが、これらはみな往相の回向にあたるということです。そこであらためて「教巻」の冒頭部分をみますと、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」とありました。この文で往相回向についての論がはじまり、先の「それ真宗の教行信証を案ずれば云々」で締めくくられていることが了解できます。それを受けてここで「二つに還相の回向といふは」と言われているのです。

『教行信証』の組み立てのもっとも基本にあるのは「往相と還相」であり、その往相について「教行信証」があって、それがそれぞれの巻に割り振られているわけです。としますと「証巻」のここまでで往相が完結するのですから、還相についてはまた別の巻を立てて新たにスタートするのが相応しいと思われますが、親鸞はそうせずに還相を「証巻」の中に収めています。ここから往相・還相という軸と教・行・信・証という軸の二つがもつれあっているような印象を与えることになるのですが、親鸞はどういう意図で還相を「証巻」の中に組み込んだのでしょう。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『証巻』を読む」その32 ブログトップ