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われこの相あり [『教行信証』精読(その90)]

(3)われこの相あり

 それを分かりやすく教えてくれるのが「たとへば転輪聖子の転輪王の家に生れて」という譬えです。
 転輪聖子に「われかならず転輪王になるべし」という喜びがあるのは、「いますでに」転輪王の相があるからです。転輪王になるのは「これから」ですが、「いますでに」転輪王の相があるということですが、さて転輪王の「相」とは何でしょうか。それを「徴候」と言いかえてはどうでしょう。「徴」という字は「ほのかに示す」という意味を持ち、何かの「しるし」があらわれているということです。転輪聖子には転輪王としての「しるし」がすでにあらわれていて、それがあるから「われかならず転輪王になるべし」という歓喜がある。それと同じように、必定の菩薩に「われかならず作仏すべし」という喜びがあるのは、仏の「しるし」が「いますでに」あるからです。仏になるのは「これから」であっても、「いますでに」仏の「しるし」があるということ。
 そう言えば親鸞は関東の弟子への書簡のなかで、この「しるし」ということばをつかって語っていました。「仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ」(『末燈鈔』第20通)。弥陀の本願という「くすり」があるのだから、貪欲・瞋恚・愚痴という「毒」を好んで飲もうという、いわゆる「造悪無碍」の誤った考えに陥っている人に対して、本願・名号に遇うことができたら「この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」があらわれるはずだと諭しているのです。好んで「毒」を喰らおうという人にはその「しるし」がないと。
 本願・名号に遇えた人には、すでに仏の「しるし」があらわれていて、それはまた「この世のあしきことをいとふしるし」でもあるというのです。

タグ:親鸞を読む
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