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信をあらはして能入とす [『教行信証』「信巻」を読む(その129)]

(9)信をあらはして能入とす

信楽釈の終わりにあたり、曇鸞の『論註』から短い文が二つ引かれます。

『論の註』にいはく、「〈如実修行相応〉と名づく、このゆゑに論主(天親)、はじめに〈我一心〉とのたまへり」と。以上

またいはく、「経のはじめに〈如是〉と称することは、信をあらはして能入とす」と。以上

一つ目の文はすでに引用された文の末尾に当たります(第4回、7)。曇鸞は「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」にもかかわらず「称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざる」のはどういうわけかと問い、それは「実のごとく修行せざる」ゆえであると答えていました。そして「実のごとく修行する」とは、真実の信心をもって称名するということで、真実の信心とはつまりは天親の「一心」であるということです。親鸞はこれを再び引用することで、信楽とは一心に他ならないことを確認していると言えます。

一心とは何か。「いのち、みな生きらるべし」という弥陀の「ねがい」が、南無阿弥陀仏という「こえ」となってわれらのもとにやってきて、それがわれらの信心となるということ、したがって本願と信心はひとつであるということです。本願という「ほとけの心」と信心という「われらの心」が同じ「ひとつの心」であるということです。親鸞の印象的なことばとしてこんなものがあります、「仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり。すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」(『唯信鈔文意』)と。世界中に遍満している如来の大悲の心がわれらにやってきて、それがわれらの信心となるということです。

二つ目の文は経のはじめに「如是我聞」と言われるのは、聞くことがそのまま信であることを意味しているということでしょう。如来の「こえ」が聞こえることが、取りも直さず信であり、そしてそれが救いに他ならないということです。

(第12回 完)


タグ:親鸞を読む
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