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名利に人師をこのむなり [親鸞最晩年の和讃を読む(その113)]

(11)名利に人師をこのむなり

 ここにまた紛れもない親鸞その人が顔を出しています。親鸞という人は、この頃はやりのことばでは自虐的とも言わねばならないほど己の偽らざる姿をさらけ出します。親鸞と同時代の人で言いますと、明恵(親鸞と同い年です)や道元(親鸞より27歳若年)には考えられないことです。彼らにも同じような思いがあったのかもしれませんが、それをおくびにも出しません。どうして親鸞はこうもあからさまに己をさらけ出すのでしょう。何かもうそうせざるを得ない力がはたらいているとしか言いようがありません。
 前に後悔と懺悔の違いを考えました。後悔も懺悔もどこかから「そんなことでいいのか」という声が聞こえ、その前にうなだれる点では同じですが、後悔の場合はその声が己の内からやってくるのに対して、懺悔の場合はそれが外からやってくると。明恵や道元でしたら内なる声に促されて後悔し反省することもあるでしょうが、親鸞の場合はどこか外からやってくる声が突き刺さるのではないでしょうか。そして後悔や反省は自分のなかですれば済むことであり、それをあえて外にさらけ出す必要はありませんが、外からやってきた声が突き刺さってきたときは、もう逃げ隠れできず、「お恥ずかしい」と声に出さざるをえないのだと思います。
 「おまえはまた偉そうな顔をして人前で説法しているが、おまえにそんな資格があるのか」という声が飛び込んできますと、「恥ずべし、傷むべし」という思いがこみ上げ、「小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」とつぶやかざるをえなくなる。これが悲嘆であることは間違いありませんが、でも不思議なるかな、同時に慶びでもあるのです。どうしてかといいますと、「そんなことでいいのか」の声は「そんなおまえのままで帰っておいで」という声を伴っているからです。

                (第12回 完)

 ※これまで12回にわたって「親鸞最晩年の和讃を読む」を掲載してきましたが、以上で幕を閉じまして、明日からは再び「『教行信証』精読」に戻ります。「行巻」の途中までで中断していましたが、これから「行巻」最後の「正信偈」まで読み進める予定です。

タグ:親鸞を読む
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