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未来とは [「『正信偈』ふたたび」その98]

(10)未来とは

未来はどこにあるのか。それは現在にあるという結論になります。「いま」未来のことを考える、そのなかにしか未来はありません。「いま」明日のことを思い浮かべる、そこにしか明日はないということです。

としますと未来のよろこびも「いま」それを思ってよろこぶ以外にどこもないということになります。未来に「ほとけのいのち」となることをよろこぶということは、「いま」それを思ってよろこぶことに他なりません。しかし、何の根拠もなく未来に「ほとけのいのち」になるに違いないとよろこぶことはできません。明日のことをどのように思い浮かべることもできるとは言え、そこにはそのように思うことができる根拠があるに違いありません。そうでなければ、ただ勝手に夢みているだけのことで、それは本人がいちばんよく分かっています。

未来に「ほとけのいのち」になるに違いないと「いま」よろこぶことができるのも、そう思える「しるし」がすでにあるからです。その「しるし」が「行者まさしく金剛心を受けしめ」と言われたことです。本願力のはたらきがわが身の上に生き生きと感受されているということ、これです。もうすでに「ほとけのいのち」に懐かれ、そのなかで生かされていると感じているからこそ、こののちかならず「ほとけのいのち」となるに違いないと思えるのです。ここから最後の第5句「すなわち法性の常楽を証せしむ」ということばも了解できます。

法性も常楽も仏の悟りを指すことばです。法性は真如や実相と同じ意味で、ものごとの真実のありようのことですし、常楽とは常楽我浄という涅槃の徳のことです。ですから実際に「法性の常楽を証する」のは未来に「ほとけのいのち」となってからのことと言わなければなりません。しかしすでに「ほとけのいのち」に包まれ、そのなかで生かされているのをわが身に感じているのですから、もうそこに「法性の常楽」があるようなものです。「法性の常楽」が「ある」とは言えませんが、「法性の常楽」が「あるにひとし」と言えるのです。

(第10回 完)


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