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南無阿弥陀仏 [『観無量寿経』精読(その96)]

(6)南無阿弥陀仏

 『大経』や『小経』において、阿弥陀仏の名を聞き(聞名)、その名を称える(称名)ことに決定的に重要な意味が与えられているにもかかわらず(阿弥陀仏の本願はその名のなかにすべてが込められ、われらに届けられます)、ただ名としか言われてきませんでしたが、後に編纂された『観経』ではじめて名を称えるとは「南無阿弥陀仏」と称えることだと言われるのはどういうことでしょう。あらためて下品下生段を見直しますと、「かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべしと。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」とあります。
 これを見ますと、苦に逼められて無量寿仏を心に念ずることが難しいものに、その名を口に称えることが勧められ、それが具体的には「南無阿弥陀仏」と称えることであることが分かります。口に無量寿仏の名を称えると言っても、ただ「無量寿仏」と称えるのではあまりにぶしつけになるということで、その前に「南無」をつけて「南無阿弥陀仏」と称えさせたということでしょう。「南無」は、サンスクリットの“namas”(が語尾変化して“namo”となったもの)の音訳で、一般的には「敬う」とか「従う」という意味です。インドでは日常の挨拶語として「ナマステ」がつかわれますが、これは“namas”に「あなた」を意味する“te”がついたもので「あなたを敬います」ということですが、それが日々「こんにちは」や「さようなら」という挨拶語として使われているわけです。
 このように見ますと、『大経』ではただ「名」あるいは「名号」とだけ言われていたのが、『観経』では「南無阿弥陀仏」とされるわけが浮び上がってきます。『大経』で「名」あるいは「名号」が出てきたときは、そのあとに「聞きて」とつづきます。唯一の例外は第十七願で、「わが〈名〉を称せずは、正覚を取らじ」とありますが、この「称する」は「ほめたたえる」ということであり、しかもそれをするのは「諸仏」です。それ以外はすべて「十方世界の衆生」が阿弥陀仏の名号を「聞く」となっています。それに対して『観経』の下品段に「南無阿弥陀仏」と出てきますのは、下品のものたちが「称える」ものとしてです。

タグ:親鸞を読む
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