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矛盾について(その344) ブログトップ

7月13日(水) [矛盾について(その344)]

 自力の立場に立つ聖道門の人たちから見れば、ただ弥陀の本願を信じるだけなどというのは「かひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」と映るでしょうが、それは彼らが本願他力というものをいまだ感じたことがないからです。弥陀の本願に救いを感じている人と、それをまだ感じたことのない人との間にはどうしようもない溝があります。でも、それだけのことなら、そこにはすれ違いがあるだけで争いにはなりません。争いになるのは「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」と言われて、「わが宗こそすぐれたれ」とそれに立ち向かっていくからです。
 なぜ立ち向かっていくのか。
 守るべきものがあると思うからです。相手の非難や攻撃をそのままにしておくと、何かがダメになってしまうと危惧するからです。信仰そのものがダメになってしまうのでしょうか。いえ、その心配はありません。「信じる」ことは「感じる」ことですから、どんな非難の嵐に見舞われてもビクともしません。弥陀の本願に「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえた」のです。すでにその喜びを感じているのですから、それを周りからどのように攻撃されても、それが何でしょう。
 では何を怖れるのか。組織を守ろうとしてとしか考えられません。新しい信仰が生まれ、それが人づてに手渡されていきます。こうして弥陀の本願を喜ぶ人たちの集団がおのずと形成されてきます。そしてその人たちは専修念仏衆と呼ばれ、浄土門と呼ばれるようになります。もう事態は一人ひとりが弥陀の本願をこころに「感じる」レベルではなく、専修念仏の集団をどのように維持・発展させていくかというレベルになっているのです。信仰を守る必要などありません、守らなければならないのは組織です。かくして争いや対立が生まれる。

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