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字訓釈 [『教行信証』「信巻」を読む(その92)]

(9)字訓釈



 親鸞の問いに戻りますと、本願では至心・信楽・欲生の「三心」が誓われているのに、天親は「一心」というのはどうしてか、と問い、それに対して、天親は愚かなわれらに分かりやすいように、本願の三心を信心の一心に収めたのではないかという答えでした。この問答を見る限り、三心と一心はただの数字の違いにすぎないように見えるかもしれませんが、その奥にわれらの信心と弥陀の願心は「ひとつ」であるという意味が隠れているのではないでしょうか。すなわち至心・信楽・欲生はみな「一心としての信心」であり、だからこそそれは「涅槃の真因」となるということです。



親鸞はそれを確認するためにいわゆる字訓釈を施します。



 わたくしに三心の字訓をうかがふに、三すなはち一なるべし。その意(こころ)いかんとなれば、「至心」といふは、「至」とはすなはちこれ真なり、実なり、誠(じょう)なり。「心」とはすなはちこれ種なり、実なり。「信楽」といふは、「信」とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極(ごく)なり、成(じょう)なり、用(ゆう)なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」といふは、「欲」とはすなはちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。「生」とはすなはちこれ成なり、作なり(作の字、為なり、起なり、行なり、役なり、始なり、生なり)、為なり、興なり。



 字訓釈の例としては、すでに「行巻」において「帰命」ということばについてなされていました。「帰命」を「帰」と「命」に分け、それぞれの文字に含まれている豊かなニュアンスを引き出し、それが組み合わされることで醸し出されてくる意味を汲みとるという手法です。親鸞はそこから「帰命は本願招喚の勅命なり」という驚くべき結論を導き出したのでした。こんなことができるのは、表意文字としての漢字だからこそですが、これをさまざまなところで駆使している親鸞の思いを探ってみますと、ことばというものは、それを発している人の意識を超えた意味を含んでいることがあり、それがわれらに大事なことを教えてくれるという直観があるのではないでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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