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責任ということ [親鸞最晩年の和讃を読む(その107)]

(5)責任ということ

 「わたし」がなすことはみな縁起の網の目の中で定められているのですから、その責任は縁起の網の目の総体にあり、「わたし」にはないということになります。縁起の網の目の総体を「大いなるいのち」と名づけるとしますと、すべての責任は「大いなるいのち」が負っているのであり、「わたし」は一切の責任を解除されるのです。その安堵はことばで言い尽くせぬものがあります。清沢満之は縁起の網の目の総体を如来とよび、こう言います、「私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である」と(「わが信念」)。
 「わたし」は「自ら独立する能力のないもの」であるということは、「わたし」は縁起の網の目の中のひとつの結節点にすぎないということです。その結節点が結節点として存在することができるのは網の目の総体である如来があるからこそのことです。そこから次の述懐が続きます、「私は何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、ナンニモ知り分る能力のない私、…此私をして虚心平気に此世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ」と。引用が長くなってしまいましたが、清沢満之が死の直前に書いたこの文章から彼の安心がどこにあったかがよく伝わってきます。
 「わたし」という独立の始点はなく、「わたし」も他のあらゆるものと同じように縁起の網の目のひとつの結節点にすぎないと気づくことで、網の目の総体である「無限なるいのち(アミターユス)」に一切の責任を委ねて生きることができるようになるのですが、さてしかし、だからといって「わたし」は責任を感じなくなるわけではありません。何か矛盾したことを言うようですが、まったく責任を負わなくていいと同時に、すべてに責任を負わなければならなくなるのです。「わたし」という結節点は他のすべての結節点とつながっているからです。

タグ:親鸞を読む
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