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かなしきかなやこのごろの [親鸞の和讃に親しむ(その115)]

(5)かなしきかなやこのごろの

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬(そんきょう)す(第104首)

かなしいことにこのごろは 僧侶も俗もかわらずに 仏うやまうふりをして 実は神々祈祷せり

前の二首と同じ趣旨の和讃です。神仏の力をたのんで幸せを得ようとするのと、本願他力に生かされていることを喜ぶのとの違いを考えてきましたが、さらにそれを続けますと、神仏の力をたのむときには、ベクトルの向きが自分から神仏へとなっているのに対して、本願力をたのむときは、本願力から自分へというベクトルの向きになっています。前者はわれらから神仏に向かって「おたのみ申します」と発信するのに対して、後者では本願力の方からわれらに「われをたのめ(待っているよ、帰っておいで)」と呼びかけてくるのを受信しているということです。そしてそこから、前者では「われら自身」のありようをふり返ることはありませんが、後者ではおのずから「われら自身」の姿に光が当てられることになります。

本願力がわれらに「われをたのめ」と呼びかけるのは、われらがわが力をあてにして救いを得ようとしても不可であるからで、だからこそ本願力は「われをたのめ」と呼びかけると同時に「汝らは煩悩具足の凡夫である」ことを突きつけてくるのです。煩悩具足であるとは、「わたし」に囚われていること、すなわち我執に取りつかれているということに他なりませんが、それに気づいてはじめて「われをたのめ」という本願力の呼びかけが身に沁みるのです。ここまできまして、仏教が「目覚め」の宗教であるということのほんとうの意味が明らかになります。すなわち「目覚め」とは、まずもって「本願力の目覚め」ですが、しかし同時に「我執(煩悩)の目覚め」であるということです。この二つの「目覚め」は二つにして一つです。

「良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす」る道俗たち、「天地の鬼神を尊敬す」る道俗たちに、我執の目覚めはないと言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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