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南無阿弥陀仏 [「親鸞とともに」その28]

(4)南無阿弥陀仏

それを論じているのが『教行信証』の「行巻」です。親鸞はまず善導の「六字釈(南無阿弥陀仏の注釈)」を引きます、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに必ず往生を得」(『観経疏(観無量寿経の注釈書)』)。これは、当時(隋・唐の時代)、「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できるという浄土の教えは根拠がないという批判があったのを受けて、善導がそれに答えて「南無阿弥陀仏」と称えることにはどのような意味があるのかを述べているものです。その批判の眼目は、「南無阿弥陀仏」というのは往生を願うだけで行がないという点にあったのですが、善導は「南無阿弥陀仏」には願も行もそろっているから往生できると応答しているのです。

それにしても善導の「六字釈」は簡略にすぎて、その意味がよく伝わらない嫌いがありますので、親鸞がそれをさらに注釈します。まず「南無といふは、すなはちこれ帰命なり」についてこう言います、「帰の言は、至なり、また帰説(きえつ)なり、説の字は、悦の音(こえ)なり。また帰説(きさい)なり、説の字は、税(さい)の音なり。悦税二つの音は告(つぐる)なる、述(のぶる)なり、人の意(こころ)を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり。ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と。このように親鸞は帰命を「帰」と「命」に分けて、その意味を明らかにしようとしているのですが、非常に複雑で一筋縄ではいきません。面倒でも一つひとつ読み解いていきましょう。

まず「帰」について「至」としているのは分かりやすいでしょう。漢和辞典を見ますと、帰は「女が嫁に行くことで、落ち着くべきところに落ち着く」こととあり(帰は「とつぐ」とも読みます)、至るべきところに至りつくことと理解できます。問題は次の「帰説(きえつ、帰悦)」と「帰説(きさい、帰税)」ですが、『詩経』にこれらの語があることから、帰には「悦」の意味と「税」の意味があることを探り出すという込み入った手続きをとっているのです。


タグ:親鸞を読む
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