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願作仏心(がんさぶっしん)と度衆生心(どしゅじょうしん) [「『証巻』を読む」その90]

(7)願作仏心(がんさぶっしん)と度衆生心(どしゅじょうしん)

天親のことばに還相の菩薩の本質がはっきりと浮き彫りにされています、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに」と。われらが往生を願うのは「自身住持の楽」のためではなく、還相の菩薩として「一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑ」であるということです。それを注釈して、曇鸞はまず願生の行者はみな「無上菩提心」をおこすとし、そして「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」と述べます。親鸞はこの一節を大事にし、たとえば『高僧和讃』ではこう詠っています、「願作仏心(がんさぶっしん)の心はこれ 度衆生(どしゅじょう)のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり」と(親鸞はこれを天親讃のなかで詠っていますが、願作仏心も度衆生心も曇鸞のことばです。親鸞のなかで天親と曇鸞は一体となっています)。

さてここで考えておきたいのは願作仏心と度衆生心の関係です。しばしばこう言われます、小乗仏教では願作仏心だけで度衆生心がないが、大乗仏教では度衆生心が大事にされると。この言い方では、願作仏心だけでは不十分で、それに度衆生心が加わってはじめてほんとうの菩提心となるということになります。「菩提心=願作仏心+度衆生心」という等式です。しかし曇鸞が言うのはそういうことでしょうか。「無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」というのは、「菩提心=願作仏心=度衆生心」ということです。

違いは明らかでしょう。前者は、まず願作仏心をもつことが大事だが、しかしそれだけで満足することなく、さらに度衆生心をもってはじめて完成するということであるのに対して、後者は、願作仏心は取りも直さず度衆生心であり、度衆生心でないような願作仏心はほんとうの願作仏心ではないということです。この違いは、願作仏心と度衆生心の間の時間的な関係にもつながってきます。すなわち前者では、まず願作仏心が起こり、それが成就された後に度衆生心が起こることになりますが、後者では願作仏心の起こる時が、取りも直さず度衆生心が起こる時です。


タグ:親鸞を読む
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