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天親菩薩のみことをも [親鸞の和讃に親しむ(その50)]

(10)天親菩薩のみことをも

天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし(第31首)

『論註』なくば天親の、『論』に説かれる広大な、他力の信と行ともに、どのようにしてさとらりょか

天親の『浄土論』を読みますと、菩薩(われら行者)は五つの行(五念門、すなわち礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門・回向門)を修めることにより、五つの功徳(五功徳門、すなわち近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門)を得て往生することができ、菩提を得ることができると説いてあります。これは実に常識的で分かりやすい自力の構図と言えますが、曇鸞はこの『浄土論』を注釈した『浄土論註』の土壇場において、天親の構図の天地をひっくり返してしまうのです。

曇鸞は「どうして五念門を修することにより、すみやかに菩提を得ることができるだろうか」とみづから問い、天親は「われらが五念門を修めることにより自利と利他の行を成就するからだ」と言われているが、実を言えば(「まことにその本を求むれば-(かく)()()(ほん)」)それは弥陀の本願他力によるのだと答えるのです。阿弥陀仏が四十八願を立て、それを成就してくださったことによってこそ、われらはすみやかに往生を得、菩提に至ることができるのだと。われらが五つの行を修め、その結果として五つの功徳を得ることができるかのように見えて、実のところ、その因も果もみな本願他力のなせるわざであるということです。

このことを親鸞は「正信偈」の曇鸞讃で「往還の回向(自利と利他の行)は他力による」と詠っています。そして「正定の因はただ信心なり」とつづけますのは、その本願他力に気づくこと(これが信心です)こそ往生の因であるという意味です。往生の因も果もみな本願他力によるのですが、しかしそれに気づかないことには本願他力はどこにもありません。われらが救い(往生)をつかみとることはできません、救いがわれらをつかみとるのです。われらはそれに気づく(信心する)ことができるだけです。

(第5回 完)


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