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縁起と他力 [『ふりむけば他力』(その37)]

(10)縁起と他力

 無我の目覚めは「われ」において起るが、しかし「われ」がそれを起こすことはできないと言いましたが、以前まったく同じ言い回しをしました。他力に「気づく」ことは「わたし」に起るが、「わたし」が「気づく」のではなく、「気づき」が起こったあとで「わたし」がそのことを意識するのだ、と(第2章、4)。無我の目覚めも他力の気づきも「わたし」が「こちらから」起こすことはできず、「むこうから」おのずと起ってくるものであるということです。ここから了解できますのは、無我と他力は別ものではないということであり、そして無我と縁起はひとつですから、まわりまわって本章の冒頭で述べたこと、すなわち縁起と他力は一見縁のないような顔をしていても実は同じことを意味しているということになります。
 もう一度縁起の意味を確認しておきますと、この世にあるものはみな他の無数のものとの縦横無尽のつながりのなかにあり、それ自体として存在するものは何ひとつないということです。そして他力とは、何ごとも「わたし」が自分でそうしようと思ってしているには違いないが、それがそっくりそのまま本願力のはからいによるということです。本願力ということばは阿弥陀仏の物語を背景としていますから、それが縁起と同じことを意味するとはなかなか思えないのですが、ここで想起したいのが龍樹の「指月(しげつ)の譬え」です。「われ指をもつて月を指(おし)ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看(み)て、しかうして月を視ざるや」(『大智度論』)。阿弥陀仏の物語は釈迦が縁起ということばで言おうとしたことを示すための指にすぎませんから、その指に目を奪われることなく、それが指そうとしているものを見なければなりません。
 「われへの囚われ」を語るのに二通りの方法があります。ひとつはそれを「論理のことば」で語ること、もうひとつはそれを「物語のことば」で語ることです。聖道門は縁起や無我といった「論理のことば」をもちいて語ろうとしますが、浄土門はそれを阿弥陀仏の本願という「物語のことば」をもちいて語ろうとするのです。真実を語るのに物語を持ち出すなんてといわれるかもしれませんが、考えてもみてください、われらはどれほど物語をとおして真実にふれてきたことでしょう、小さい頃は童話を通して、長じては小説を通して。

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