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ただ五逆と誹謗正法とをば除く [「『正信偈』ふたたび」その30]

(10)ただ五逆を誹謗正法とをば除く

さてこの問題に関連して、もうひとつ考えておかなければならないことがあります。第十八願に「唯除五逆誹謗正法」という一句があることです。

「正信偈」では「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」と言われていますが、第十八願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆を誹謗正法とをば除く」と言われているのです。第十八願は、いまさら言うまでもなく本願中の本願ですが、そこで「ただ五逆を誹謗正法とをば除く」と言われていること、これをどう理解すればいいのいかという問題です。これは浄土の教えに心を惹かれてきた人たちにとって非常に深刻な問題として古くから議論されてきました。曇鸞は『論註』で、善導は『観経疏』で、かなりのスペースを割いてこれについて論じています(『教行信証』「信巻」にその議論が紹介されています)。

これを考える際に手がかりになるのが、法然・親鸞の時代に起こった「本願ぼこり」あるいは「造悪無碍」とよばれる言動です。

凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」であるのだから、本願を信じさえすれば、どんなに悪を造っても往生に差し支えないとし、「身にもすまじきことををゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもあもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあう」(『末燈鈔』第20通)人たちが出てきたのです。そして南都・北嶺や朝廷は、これを念仏弾圧の絶好の口実としてつかうようになります。承元の法難(1207年)をはじめとする幾多の弾圧事件の背景にこれがありました。

問題の核心は、本願念仏の教えは倫理を否定するのかどうかということにあります。親鸞は先の書簡でこう言います、「薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」と。本願という妙薬があるからといって、好んで毒を飲むなどということはあってよいはずはないというのです。本願に遇うことができたとき、われらの心に生まれるのは慚愧の念であり、思い存分悪をなそうなどと思うはずがないということです。本願の「唯除五逆誹謗正法」も、これまでになしてきた悪を慚愧せよというメッセージに違いありません。

(第3回 完)


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