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本願と成就文 [『教行信証』「信巻」を読む(その27)]

(7)本願と成就文


 第十八願につづき、その成就文が『大経』と『如来会』から引かれます。


 本願成就の文、『経』(大経)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。以上


『無量寿如来会』にのたまはく、菩提流支訳 「他方の仏国の所有(しょう、あらゆる)の有情、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽(あいぎょう)して無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間(五無間業のこと、無間地獄に堕ちるべき業因、五逆罪と同じ)、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。以上


 第十八願は阿弥自身の「本の願い」ですが、それがすでに実現していることを釈迦が述べるのが第十八願成就文です。ですから本願では「〈わが国〉に生れんと欲ひて」とあるのに対して成就文では「〈かの国〉に生ぜんと願ぜば」となっています。本願はただの「願い」ではなく、それが成就してわれらにはたらきかける「力(本願力)」になっているということが重要であり、その意味では成就文の方にむしろ重みがあるということができます。実際『教行信証』のなかで親鸞はこの成就文こそ浄土の教えの要となる文であると見て繰り返し引用しています。


まず『大経』の文から見ていきますが、ここには親鸞流の読み方がいくつも出てきます。その第一は「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」とあることで、これは普通には「その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん」と読むところでしょう。それを「信心歓喜せんこと、乃至一念せん」と読んでいますのは、信心歓喜と乃至一念をひとまとまりのものと見ようとしているということです。普通に「信心歓喜し、乃至一念せん」と読むときは、信心歓喜と乃至一念はもちろんつながってはいるものの、別のことがらを指すことになります。



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