SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その66) ブログトップ

仏智と罪福 [親鸞最晩年の和讃を読む(その66)]

(4)仏智と罪福

 さてこのパラドクスは世界そのものに時間があると考えるところから生まれるのではないでしょうか。カントが言うように、われらが世界に時間を持ち込んでいると考えれば、この難問を解消することができます。こういうことです。われらは世界を時間の流れのなかにおいて見ていますから、アキレスはまたたくまに亀に追いつき、そこに何の不思議もありませんが、しかしわれらが世界に時間を持ち込む前のいわば生の世界についてはどのようにも言うことができ、ゼノンのように、アキレスは亀に追いつけないという理屈も成り立つということです。
 縁起と因果の話にもどりますと、縁起の世界は、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっている世界で、そこには時間の流れはありません。しかし因果の世界は、あることが因となり、それが一定の時間ののちにある果を生み出している世界です。注意すべきは、縁起の世界と因果の世界という二つの世界があるわけではないということです。世界はただひとつですが、その世界に時間という因子を持ち込むと因果の世界が見えてくる。しかし時間の因子を持ち込む前の世界はというと、あらゆるものが混沌と繋がりあっている縁起の世界です。もうひとつ言っておきますと、われらが世界を認識するときには時間の因子が必須である以上、時間の因子を持ち込む前の生の世界はわれらには不可知です。縁起の世界というものの、それはただ混沌と繋がりあっている世界だというだけで、それ以上にどんな世界であるかを積極的に言うことはできません。
 かなり遠回りしてしまいましたが、釈迦のいう縁起の法と、いわゆる因果応報の教えが根本的に異なるものであることが明らかになったと思います。そしてこのうたで仏智といわれているのが縁起の法の智であるのに対して、罪福を信ずるといわれているのは因果応報を信ずることですから、この二つは相反することであり、仏智を疑うことが罪福を信ずることになるのが了解できます。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その66) ブログトップ