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真理はひとつ [はじめての『尊号真像銘文』(その134)]

(11)真理はひとつ

 これまではそれぞれの宗の教行のなかに、そのひとつの科目として「念仏も」含まれていたが、わたし法然は「念仏のみ」と言いたいというのです。これをもう一歩ふみこんで言えば、「念仏が仏教である」ということになります。仏教の中にそのひとつとして念仏があるのではなく、「仏教とは念仏の教えである」ということ。これは大胆不敵な宣言と言うべきで、これが引き起こした衝撃の大きさを推し量ることができます。承元の法難という嵐がやってくるのももっともなことと思えます。
 ここで「仏教は念仏の教えひとつ」ということに思いを潜めたい。
 もっとも古い(したがって釈迦のことばにもっとも近い)経典に『スッタニパータ』(スッタは経で、ニパータは集)がありますが、その中でも古い層とされる「第4、八つの詩句の章」に「真理はひとつ」ということばが出てきます。「真理はひとつであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は争うことがない」。これだけでは何を言っているのかよく分かりませんが、その前にこうあります、「(世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。―『このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である』と」(中村元訳『ブッダのことば』)。
 こうした人たちはみな「論敵は愚者である」と言い、「自分こそ真理に達した人である」と言うが、もしこうした人たちが言うように「論敵が愚者である」ならば、争いあっているものはみな愚者であることになり、もし「自分こそ真理に達している」のであるならば、みな真理に達していることになるではないかと述べた上で、先の「真理はひとつであり、それを知った人は争わない」ということばが出てくるのです。これにはしかし当然ながら次のような疑問が生じます。A、B、Cの三人がそれぞれに「論敵が愚者であり、自分こそ真理に達している」と言い争うとき、必ずしも三人のすべてが愚者であるわけでも、みんなが真理に達しているわけでもなく、たとえばAだけが真理に達しており、BとCは愚者である可能性があるのではないか、いや、それが普通に考えられることではないかと。

タグ:親鸞を読む
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