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専修と雑修 [はじめての『高僧和讃』(その178)]

(6)専修と雑修

 次の和讃です。

 「霊山聴衆(りょうぜんちょうじゅ)とおはしける 源信僧都のをしへには 報化二土(ほうけにど)ををしへてぞ 専雑(せんぞう)の得失さだめたる」(第90首)。
 「霊鷲山(りょうじゅせん)にて聴衆たる、源信和尚いわれるに、報土と化土の分かれ目は、専と雑との違いなり」。

 霊鷲山とは王舎城郊外にある釈迦説法の地で、『大経』もここで説かれていますが、三井寺の僧・慶祚(けいそ)にあらわれた夢告では、源信和尚はそこで釈迦の説法を聴いていたというのです。霊鷲山の聴衆であったからこそ、報土(真実の浄土)への往生と化土(仮の浄土)への往生を専修(「ただ念仏」)と雑修(「念仏も」)の違いと結びつけることができたということでしょう。つまり専修にしてはじめて報土往生ができ、雑修(ざっしゅ)の人は化土にとどまるしかないということです。
 しかし、なぜ「ただ念仏」にしてはじめて真の浄土に往生でき、「念仏も」だと仮の浄土にとどまるのでしょう。
 それを考えるためには、報土にせよ化土にせよ、そもそも浄土とは何かという根本問題に答えなければなりません。そしてこの問題は、「臨終に浄土へ往生する」のか、それとも「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」のかという問題と直結しています。前者の、いのち終わる時に浄土へ往くという考えでは、これまでいた穢土とは別の世界に移るということであり、かくして穢土と浄土が空間的に切り離されることになります。日本を離れてアメリカに行くように、穢土を離れて浄土に往く。『観経』に描かれている往生浄土はこの構図です。
 さてしかし、信心のときに「すでにつねに浄土に居す」となりますと、その浄土は穢土から切り離された別の世界であることはできません。現に穢土にいながら、しかもすでに浄土にいるというのですから。ではその浄土とはいったい何か。

タグ:親鸞を読む
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